曇り。
学校のそばの「サクラ」は、既に大きな葉が重なり合い、葉陰が黒ずんで、樹全体が暗く見えるほど。季節は進んでいますね。
以前、ベトナムに行った時、自転車に花を、これでもかこれでもかというぐあいに積んで運んでいる花売りか花の卸かの人々を見たことがあります。そして案内の人に「ここが『花市場』」と説明してもらった時、外からでしたが、その種類の多さと派手さに驚いたものでした。「ベトナムの人たちは、花を買うのだな。南国なのに、買って飾る必要があるのかしらん」と微かに違和感を感じたのものでしたが、それも「何となく」くらいのもので、はっきりしたものではありませんでした。
「南国だから、却って花が少なく、飾りたくなるのかもしれない」くらいにやり過ごしていたのですが、日本で学生達と一緒に居、話し、それとなく見ていると、どうも花に関する楽しみ方がどうも違うような気がしてきました。彼らの反応からですが。
例えば、日本では、「サクラ」の「花見」や、「モミジ」の「紅葉狩り」といった、木々を楽しんだりするものもある。四季のそれぞれの「花祭り」の花々を見に行って楽しんだり、あるいは、道端の野草でも楽しめたりもする。おそらく、そういうのが、ない…ような感じなのです。
勿論、日本にも、「生け花(華道)」などもあります。かれども基本的な考え方は、どうも
「手に取るな やはり野におけ 蓮華草」 (瓢水)
であると思います。
花は、草木は、やはりそこ(生えている所)で見るのが一番いい、一番美しい。人工的におかれている街の草木であっても、植えられている所で見るのが一番自然で、慕わしい感じがする。
人々が暮らしている家(昔は木造でしたし、自然のもので多く作られていましたから)にしても、自然の一部と化しているような「もの」を最上としてきたような気がします。
しかも、あまり派手で色鮮やかなものは好まれていないような気がします。
強い色彩を持つ、「アヤメ」などの花にしても、派手とは違う、すっきりとした潔さが感じられますし、ただ豪華、派手というだけではないのです。
「サクラ」は華やかだけれども、すぐ散ってしまう…だからいいのだ。あの華やかさの裏には闇が潜んでいる…だからいいのだといった、「口実」めいたものを口にしながら、「咲く桜」を楽しむと同時に、「散る桜」を想像したり、翌年、まだ自分が生きているかどうかを考えたりする。
勿論、「花」だけでなく、「樹」も楽しむ。そして、それらの存在する大地、野山をも楽しむ。どこか、自然全体を楽しみ、その一環として個々の草花、木々を見ているような気がするのです。そして「声かけ」もする。自分たちと同じ存在だといった気持ちで。
亡き母はよく「年を取ると大地に戻る」と言っていましたが、これは「大地に帰る」という意味ではなく、「大地と親しむようになる」という意味なのでしょう。
どうも、私もそうなっているようです。ただ「親しむ」のも、よく見るようになったくらいのものですが。
日々是好日