晴れ
晴れ時々曇り。便利な言葉です。これに「ところによっては雨」というのが入ればもっといい。
「昨日勤王 明日は佐幕 その日その日の出来心」お天気だってそうでしょうね。一喜一憂している人間なんて馬鹿みたいに見えるでしょうね、お空の上の上のずっと上からは。
これを、こういう歌が流行っていた幕末か明治の初め頃のものだと思っていました。覚えやすいし、言いやすい。しかも、何か折りには言い訳にも使える、便利なものですし。
ところが、引いてみると、「西条八十」の歌詞だそうな。昭和の初め頃のものですから、確かに古いことは古いけれども、「狂歌」とかじゃあないし、まず、私でも知っている数々の歌詞を書いた人の作だったとは。「出来心」一つにしても、こういう文句が先に付いていた方が、なんとなく許せる。だれが言っても。その点、本当に便利なものです。
今朝は、今年初めて「セミ(蝉)」の声を聞きました。グウ~ワアンと大音声に鳴いていました。ただ短かった、この声は、すぐに、シー、シーという秘めやかな蝉の声になってしまいましたから、それだけに、この一時の蝉の声は印象に残りました。
けれども、ちょっとばかり、ホッとしました。「今年は蝉の声が聞こえない…なにか異常が起こるのではないか」と市井では喧しかったから。しかしながら、もう既に異常に馴れている我ら。「異常さん」とは親戚づきあいをしているようなもの。
この暑苦しい世の中に、また宗教で苦しんでいる人が出てきた。宗教とは、人を助けるはずのもの。だから人間はそれを作り出した。救いがほしいと思っている人が、そういう状況におかれている人が多かったから。
「神といひ佛といふも 世の中の ひとのこころの ほかのものかは」(源実朝)
万葉調と言われるのは、当時の他の歌人たちのよりも、ずっと直裁的に、現代の私達の心に響いてくるからなのでしょうね。この人の歌のいくつかは、叫びみたいなもの。だから有名な幾首かを見ると、自分の心にすぐに迫ってくる。
けれど、時々、辛くなることがある。それに比べれば、江戸期の
「念仏を 強いて唱(もう)すもいらぬもの もし 極楽を通り過ぎては」(桃水和尚)
という禅宗のお坊さんのもののほうが、(ハッとして、次にホッとでき)笑えるところがいい。
日本人なんて、山に入る時には、「無事に帰山できますように」と、その山の神に祈り、海に入る時にも同じようにして来た。何にも目の前にない時には、お天道様に、「今日も恙無く過ごせますように」と、柏手を打って来た。
そんな存在だと思っていたのに、金で神様をどうにかしようとする心の人がいるとは(金でどうにかなるものなのでしょうか、「神」っていうのは)。またそれを唆すような神の存在を使い、押し広げていこうとする人がいるとは(もう、こうなったら、金儲けの一つですね、宗教ってのは)。
ちょっと考えただけでも、そんなもんは紛いもんだということは、わかりそうなものなのに、引っかかるとは。人とは本当に弱いものなのですね。追い詰められると、何をするか判らない。誰かに、何かに、頼ろう、縋ろうとしてしまうものなのでしょうね。
目に見えるもの。具体的なあるもの。「心」とかではなく、「物」で何とかできれば、こんな楽なものはない。「物」で何ともできないから、「宗教」があるのでしょうに。
日々是好日
晴れ時々曇り。便利な言葉です。これに「ところによっては雨」というのが入ればもっといい。
「昨日勤王 明日は佐幕 その日その日の出来心」お天気だってそうでしょうね。一喜一憂している人間なんて馬鹿みたいに見えるでしょうね、お空の上の上のずっと上からは。
これを、こういう歌が流行っていた幕末か明治の初め頃のものだと思っていました。覚えやすいし、言いやすい。しかも、何か折りには言い訳にも使える、便利なものですし。
ところが、引いてみると、「西条八十」の歌詞だそうな。昭和の初め頃のものですから、確かに古いことは古いけれども、「狂歌」とかじゃあないし、まず、私でも知っている数々の歌詞を書いた人の作だったとは。「出来心」一つにしても、こういう文句が先に付いていた方が、なんとなく許せる。だれが言っても。その点、本当に便利なものです。
今朝は、今年初めて「セミ(蝉)」の声を聞きました。グウ~ワアンと大音声に鳴いていました。ただ短かった、この声は、すぐに、シー、シーという秘めやかな蝉の声になってしまいましたから、それだけに、この一時の蝉の声は印象に残りました。
けれども、ちょっとばかり、ホッとしました。「今年は蝉の声が聞こえない…なにか異常が起こるのではないか」と市井では喧しかったから。しかしながら、もう既に異常に馴れている我ら。「異常さん」とは親戚づきあいをしているようなもの。
この暑苦しい世の中に、また宗教で苦しんでいる人が出てきた。宗教とは、人を助けるはずのもの。だから人間はそれを作り出した。救いがほしいと思っている人が、そういう状況におかれている人が多かったから。
「神といひ佛といふも 世の中の ひとのこころの ほかのものかは」(源実朝)
万葉調と言われるのは、当時の他の歌人たちのよりも、ずっと直裁的に、現代の私達の心に響いてくるからなのでしょうね。この人の歌のいくつかは、叫びみたいなもの。だから有名な幾首かを見ると、自分の心にすぐに迫ってくる。
けれど、時々、辛くなることがある。それに比べれば、江戸期の
「念仏を 強いて唱(もう)すもいらぬもの もし 極楽を通り過ぎては」(桃水和尚)
という禅宗のお坊さんのもののほうが、(ハッとして、次にホッとでき)笑えるところがいい。
日本人なんて、山に入る時には、「無事に帰山できますように」と、その山の神に祈り、海に入る時にも同じようにして来た。何にも目の前にない時には、お天道様に、「今日も恙無く過ごせますように」と、柏手を打って来た。
そんな存在だと思っていたのに、金で神様をどうにかしようとする心の人がいるとは(金でどうにかなるものなのでしょうか、「神」っていうのは)。またそれを唆すような神の存在を使い、押し広げていこうとする人がいるとは(もう、こうなったら、金儲けの一つですね、宗教ってのは)。
ちょっと考えただけでも、そんなもんは紛いもんだということは、わかりそうなものなのに、引っかかるとは。人とは本当に弱いものなのですね。追い詰められると、何をするか判らない。誰かに、何かに、頼ろう、縋ろうとしてしまうものなのでしょうね。
目に見えるもの。具体的なあるもの。「心」とかではなく、「物」で何とかできれば、こんな楽なものはない。「物」で何ともできないから、「宗教」があるのでしょうに。
日々是好日