日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「メヘンディ」だけで、話が続くものなのですね。

2024-07-24 08:22:22 | 日本語学校
晴れ。

暑い。暑さは、相変わらずです。夏だから、暑いのは当然。そう、当然のことで、もし夏のこの時期が暑くなかったら、それこそ大問題。それはそうなのだけれども…人間というのは全く…判っていながら、愚痴を言う、文句が絶えない…本当に厄介な存在です。

さて、学校です。

昨日は、「Cクラス(今年の四月生)」で、参考部分を読んでいると、突然、ネパールの学生が、「日本ではいつ虹が見られるのか」と聞いてきた。「いつ…ですか(困ったな)」。

私が子供の頃には、「夕立」の後などに時折見かけることがありました。海岸沿いなどですと、湾を跨ぐように大きく掛かる虹を見ることもありました。ところが、最近はとんと聞きませんねえ。もちろん、どこかで、字の如く、水を飲む巨大なヘビの姿が見られるのでしょうが。

どう答えていいか困っている私を見て、すぐに学生、「ああ、大丈夫」と言ってくれましたが、こういうおもしろい質問をするのも、だいたいネパールの学生と相場は決まっています。…当たり前と考え、答えを用意していないような質問ということなのですが。

以前、「どうして日本には星がないのか」と聞かれ、どういうふうに説明していいのかちょっと戸惑ったことがありました。彼らが学校でどの程度学んできたのか、よくわからなかったからです。

どうも彼の頭の中には、「地球は、その他、諸々の星と同じように、宇宙に存在している一つの星である。地球の周りには、(距離は光年という単位でしか計れないけれども)星が無数にある」というのがあったかどうか。また、「ある」と、「見える」というのは別次元のことである…というのが、判っていたかどうか。どうも、「見えない」イコール「日本には星がない」になっていたよう感じがしたのですが。

これも答え方が難しい。「星はあるけどね、このあたりは夜でも明るいから、あまりはっきりとは見えないのだ」くらいに答えていたような気がするのですが、何となく釈然としていない…ふうが見てとれました。

それはともかく、昨日は、「Bクラス(昨年の四月生、七月生、十月生、それと今年の一月生も)」で、女子会のように「メヘンディ(ヘナアート)」の話で、盛り上がりました。いつもはおしゃべりなバングラデシュ男子が何も言えない風だったのが面白かった…。言えないんだなあ、(話に)入れないんだなあ、本当に面白い。何となくムズムズしているような、でも、どう口を挟んでいいのか判らないような…ほんと、面白い顔つきでした。

前にも一回、インドの女子学生が左手にしっかりといろいろな模様を描いてきていて、それで皆で盛り上がったことがあったのですが、昨日は、タイの学生が、私が教室に入ってくるなり、大きな声で「せんせ~い」と手を見せに来たのです。

そこには「手の平」の部分に簡単な、ひまわりのような花が描かれていて、どうも「メヘンディ」文化の継承者たちが描いてくれたらしい。

昨日の授業では、八月一日に行く「富士山」のビデオを見せ、その後、さあ、勉強とするはずだったのですが、そのとき、一人の学生が、まるで私が何か悪いことをして、鬱屈でもさせたかのような表情で、「今日は先生と思わなかった…(つまり、本を忘れたのね)」。

「じゃあ、今日の部分をコピーしてもらってきなさい」。すると、もう一人が、慌てて立ち上がった。「二人?、下に先生がいるから、早く行きなさい」…なかなか戻ってこない(後で聞くと、コピーしてもらった先生と楽しそうにおしゃべりに励んでいたのだそうな)。

その間、(女子が大半なので、男子はこういう話題には口を挟めないようです。目だけあっちを見、こっちを見しているものの、何も言えない)「メヘンディ」の話になった。七月の何日か(聞いたけれども忘れました)にネパールのお祭りがあったのだそうな。それで「メヘンディ」をしたのだそうです。皆でその話をしている。時折、こちらが質問をすると、スリランカにも、ネパールにも、そしてスーダンにもあると言う。もちろん、インドにも。

ネパールでは「お祭り」や「結婚式」の時だけ。で、インドやスーダンでは、いつでもいいと言う。気分がいいとき、楽しいとき、その時に描くと言う。いつでもいいですと、いかにも楽しそうに言う。すると、スリランカの学生が、自分たちはしないけれども、スリランカにいる「イスラム人」がすると言う(おそらく、彼女の「イスラム人」というのは、インドから来たイスラム教徒の人達なのでしょう。だから文化をしょっている)。

すると、コピーから戻ってきた学生がそれを聞きつけて「『イスラム人』って何」と来た。俄然、強気になったふう。一人が、「『イスラム人』じゃない」と。まあ、そういう言い方もしないことはないけれども。そこで「『イスラム教徒』、つまり、イスラム教を信じる人」と入れた。勉強の時にはへっぴり腰で、後ずさりしがちなのに、この言葉は一発で使えるようになった。要は、必要か必要でないかなんですね。

このインド圏の3カ国とアラビア圏のスーダンの4カ国から来た女子で、話が盛り上がっている。普段なら「日本語で」と喚くところなのですが、情報交換をしているのがよくわかったので、彼らの話を遮らぬようにして聞いていると、この7月の祭りはインドにもあるのかと聞いている…らしい。インド人でも彼女はイスラム教徒なので「ない」と答えている…らしい。多分「ヒンディーの祭り」なのでしょうね。言葉は判らなくとも、話題さえはっきりしていれば、なんとなく判るもの。

隣同士、私たちから見れば、ほとんど同じである文化としか見えないこの4カ国(ネパール、インド、スリランカ、バングラデシュ)であっても、却ってインド人の彼女とスーダンのイスラム教徒である女性との方が近いような感じがするときもある。

そういえば、日本と韓国・北朝鮮、中国もそうですよね。文化の基盤というか岩盤になっているところが何かで違ってくるのかしらん。時たま、私が話に加わると、彼らはそれなりに皆で頭を捻りながら、日本語で答えてくれるので、そうなると、フィリピンやタイの学生も、「ああ、そうなのか」という顔になる。彼らも話には加われずとも、聞いているのがよくわかる。

話の切りのいいところで、教科書に戻ったのですが、この間、私にもわかるようにと、日本語を使おうと努力した故にでしょうか、いつもより、入りが良かったような気がする…。そんな気がしただけでしょうかしらん。

日々是好日

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