日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

オリンピック、「宴の後」

2008-08-25 07:47:00 | 日本語の授業
 今日は、明け方、雨が降っていたようです。ビニール袋に包まれた新聞に、わずかに、雨滴がついていました。

 こういうのは、過剰包装とは、言わないでしょうね。雨でびしょ濡れになると、読みにくくなるし、「朝っぱらから…」という気分にもなりやすい。これは、読者の気持ちを考えた、サービスと見なすべきでしょう。

 今日、学校へと自転車を走らせていますと、路上に、力尽きて、落ちてしまった蝉を何匹も見かけました。轢いてしまわないようにと、気をつけて走らせていたのですが、中には、車や自転車にひかれた姿のもあり、昨日、一昨日の雨とも併せ、何となくうら寂しい気持ちになってしまいました。夏の、華やいだ季節が、これで終わり、沈黙の冬へと静かに移行していくのでしょうか。

 さて、北京オリンピックも、終わりました。オリンピックやワールドサッカーが始まると、嫌でも気づいてしまいます(これは、「そのことを知らなくても」という意味です。実際問題として、そういうことはあり得ないのですが)。

 授業中、眠たげな学生が増えるからです。中には、耐えきれず、うっぷしてしまう不埒者もいます。それでいて、「眠くない。眠くない」を繰り返すのですから、とんでもない奴らです。授業中は、垂れてくる瞼と格闘しているくせに、なぜか休み中は元気なのです。といって、「テレビを見ていた」などと金輪際「吐かない」のです。聞けば聞くほど、カエルさんの口が横に引き結ばれていきます。それで、授業中は「吐かす」作業をやめて、授業を進め、休み時間にそれとなく耳を澄ませておりますと、聞こえてくるのは、すべて「オリンピックか、サッカー」の話。本当にどうなっているのでしょうね。

 さて、宴の後、中国は、どうなるでしょうか。

 そもそも、このオリンピックは、不思議なオリンピックでした。「開会式」を巡っても、中国人と、日本(「大部分の先進国の」とも言ってもいいでしょうか)人の考え方、主張の仕方に、多くの違いがあることに、少なからぬ人々が気づきましたし、この期間、ずっと、「何事も起こらなければいい」と思う気持ちと、「何事も起こらなければ、却って、中国にとって悪いことになるのではないか」と不安になる気持ちとが、交錯していました。

 それに、「金メダル」も、不思議でした。

 普通は、各国の「お家芸」とでも言いましょうか、例えば、陸上競技の100㍍、200㍍、リレーなどで、その神業的な速さを披露した、ジャマイカなどがその例なのですが、「この競技は、この国」といったものが、あるのです。

 中国は、メダルこそたくさん取ったようですが、何か、「みんながスポーツをやっていて、幸せな国」とか、「たくさんの人が、スポーツを楽しむことが出来る国」といったイメージがないのです。スポーツに付随する、明るいものがないのです。

 何でも、数、数、数、多ければ、多いほどいい。それに、一番、一番、一番じゃなければだめだ。「わあ、わあ、わあ」応援の声は大きければ大きいほどいい。自分の国が一番なんだから、自分の国だけ応援していればいい。他の国なんて知ったことか(せっかく参加してくれている国のことなんて考えません)。そして「どうだ。中国が一番だろう。もう、中国は世界で一番だ。すごいだろう」と臆面もなく、喚いている国。そういうイメージが湧いてくるだけなのです。

 私は、実際に中国で生活したこともありますから、この中でも解る部分、そうなってしまうだろうなという部分があるのも、それなりに理解は出るのですが、そうでない人には、これがわからない。「嫌だ。中国に行っていたの。あの国は…」という声が、オリンピックの間、よく聞こえてきました。

 それに、私は、中国人で、すばらしい人を何人も知っていますが、その人達とこの(オリンピックの)イメージとが結びつかないのです。その差に苦しんでしまうのです。

 「あの人達も、こういう形のオリンピックを喜んでいるのだろうか」と。「中国にとって、(たとえ、中国の政府の人が言ったように、『中国には未開に近い〈この言葉に近い言葉でした〉人達と、現代人とが同居している。これらの人達を束ねていかねばならない所に、政府の苦衷がある』としても)、よかったのだろうか」と。

 スポーツは、嘘をつかずにやるから、みんなが見るし、感動するのです。嘘があったり、「なあなあ」でやったりしたら、もう「スポーツの祭典」とは言えないでしょう。

 昔、ギリシャでは、オリンポスの神に捧げられたものでした。人間は騙せても、神を騙すことはできません。それ故に、「暗黙のルール」というものがあったのです。勝利者には月桂樹の冠だけが与えられました。それでもよかったのです。この冠がすべての名誉と栄誉を意味していたのですから。

 この「おとぎ話」に、もう一度立ち返ってみるべきなのではないでしょうか。

 いつの世にも、「おとぎ話」は必要です。それを「信じられた」から、ヒトという種は進化出来たのでしょうし。また、今でも「おとぎ話」に「夢を見て」、人生を歩んでいる人達が、ごまんといるのも、それを証していると思うです。

 一時、止んでいた雨がまた降り出しました。今日は、このように「遣らずの雨」になって、ヒトをこの場に押し止めてしまうのでしょうか。

日々是好日
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