日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「行徳、小さな国際都市」。「漢字、日本語の『読み』を伝える」。

2009-02-03 08:02:37 | 日本語の授業
 随分明るくなりました。早朝、歩いていても、光を必要としません。闇の中に浮かんでいた信号の光も、周りの明るさに押し流されて、存在感が薄れて見えます。

 いわゆる「町」の姿になってきました。

節分

 「行徳」、この町は、「日本橋」まで地下鉄で20分という「地の利」もあり、また、「その割には物価が安い」ということもあいまって、外国から来た人がたくさん住んでいます。しかも、一つの国からだけというわけではなく、町を歩いていると、「この人はインド系だな」とか、「この人はアフリカ系だ」、或いは「タイかな」、「中国かな」などと、国際色豊かで、実際のところ、どこの国から来たのか、聞いてみるまでは判りません。

 そんなわけで、私たちが各国から呼んだ就学生だけでなく、「ご近所さん」が日本語を学びにやってくることも多いのです。

 新しく来た「英語の先生」は、それに驚いていました。
「えっ。まあ。いろいろな国の人がいるんですねえ」
といった具合です。私たちはそれが普通になって、もう何とも感じていないのですが、改めて見てみると、本当に様々な国の人が学んでいます。

 多くの「日本語学校」では、「韓国人」や「中国人」が大半を占めています。しかも、その他の国から来ている人も、固定しがちです。然るに、この学校では、「ご近所さん」が、知り合いを連れてきて、初めて、その人が「ペルー人だ」と言うことが判ったり、「スーダン」や「インド」だということが判ったりで、気が抜けませんし、共通語を「日本語」で統一しなければ、全くやっていけません。

 クラスに、同じ国から来た人がいない場合、当然のことながら、気分からして、孤立化してしまいます。その上、同じ国から来た人達が、母語を用いて楽しそうにしているのを見ると、除け者にされているような気持ちにもなってしまいます。

 その時には、
「自分の国の言葉で話さない。○○さんは、話したくても、話せる人が誰もいない」
と、一喝すればいいのです。そこは、お互い、大人ですから、ピタッと同国人との話をやめてくれます。そして、直ぐに「日本語」で、寂しそうにしている人に話しかけてくれるのです。(もちろん、陰では話すでしょう、が、小さな声で、まるでいけないことをしているかのような雰囲気で、こっそりと話すわけですから、それなら、許容「内」ですので、大丈夫)

 中国にいるときには、宿舎が、男子寮の場合、アジア系とフランス語系、英語系に分かれていました。今から考えてみれば、それも、すごいですね。確かにその方が便利なのですが、帝国主義の「植民地」を色分けしているようで、「世界の現実」というものを認識させられてしまいます。

 もっとも、大学でしたし、受け入れていたのは、「中国と国交のある国のすべて」という話でしたから、学生の数も多く、というわけで、数が多かったから、フランス語やスペイン語の達人などを、大学側も揃えることができたのでしょう。何か問題が起こると、直ぐにその国の大使館が動きましたから。

 しかしながら、この学校のように、民間で、小さいと、そういうわけにもいきません。

 つまり、力ずくでも、一刻でも早く「日本語」を話せるようになってもらわなければ、困るのです。

 ただ、「非漢字圏」の人で、「日本語」を勉強しに来る人の中には、日本語には、「表音文字」と「表意文字」が組み合わさっているということが、最後まで理解できない人もいます。彼らの母語で説明してある「参考書」にも、書かれてあることですから、知らないわけではないのでしょうが、多分これらは彼らの「(常識の)埒外」、「理解のソト」の事になるのでしょう。

 日本の「書き言葉」は複雑で、「表意文字」である「漢字」には、「音読み」と「訓読み」までついています。その上、それぞれの「読み」が一種類とは限りません。特に文学作品などを読みますと、学生の口から、
「先生、(こんな読み方は)習っていません」
という叫びが直ぐに聞こえてきます。

 私たちは、子供の時からの読書を通じて、「読み方」は、ある意味では無限大(少々大げさですが、明治期の小説などを読むと、これは「漢字」に勝手に「訳」をつけて、それを「読み仮名」と称しているだけじゃないのかと思いたくなるような、そんな「ルビ」のついたものさえあるのです)と思いこまされているような部分もあるので、どのような「読み方」を指示されても、素直に従ってしまうのですが、(彼らの)理屈から言えば、それは、確かに、おかしいのかもしれません。

 とはいうものの、それを外国人に要求しても無理でしょう。頑張って「(漢字の)パーツ」を理解できるまで、書いて、書いて、書き込める人はいいのですが、大半の人は、「書く」ということ、「同じ字を何度も書く」ということ、しかも、「ある程度の意味を考えながら書く」ということは、「無駄で効率の悪いこと」というイメージを抱くようなのです。

 学生の頃、「漢字不要論」を唱えた、「森有礼」のことをレポートでまとめたことがありました。それから数年経って、中国へ行き、解放後の知識人の提言の中に同じようなものがあるのを見て、「ブルータス、おまえもか」という心境になったのを覚えています。

 けれども、これが私たちの言葉、私たちの文化でありますから、先人達が大切に守ってきたもののうち、わずかでもそれを後の人達に伝えていかねばなりません。それと共に、「日本語」を、たとえ目的は何であれ、学ぼうという人に伝えていかねばなりません。

 子供の頃なら、いざ知らず、今、日本語を学ぼうという人達は、様々な利害関係などを考慮にいれながら、「学ぼう」というのです。当然のことながら、何事によらず、「楽に手に入る」はずがありません。況んや、(他国における)言語においてをや。

日々是好日
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