今朝も短時間の間に、強い日差しを感じたり、グッと低い雲の下にいるような感覚を味わったりと、忙しいこと、この上なし。午後になれば、昨日のように、急に、ザーッと雨が降ったりするのでしょうか。
一昨日の晩から今朝にかけて、27日に発生した「竜巻」関連のニュースで持ちきりです。ここ数年のことのような気がします、「竜巻」とやらを日本でも話題にし始めたのは。勿論、アメリカなどの巨大「竜巻」とは、全くスケールが違います。
けれども、「竜巻」は「竜巻」なのです。自動車が浮いて、クルクル回ったと言います。見た人は、すぐに、「あれが、『竜巻』だ」と気がついたでしょうか。もし、私があの場にいたとしたら、どうしていいか判らず、茫然自失の体だったかもしれません。「台風」や「地震」は気づけても、「竜巻」なんぞは、遠い遠い世界の現象としか思えないのです。
私が「竜巻」という名や現象を知ったのも、アメリカの『オズの魔法使い』を読んでからです。ですから、「竜巻」というのは、いわば、「物語」の中の出来事だったのです。いくら映像で、アメリカの巨大竜巻を見ても、直ぐに「案山子さん」や「弱虫ライオン」の姿の方が浮かびます。現実味に乏しいのです。
ただ、小学校高学年で、校庭の掃除当番に当たった「秋の終わり」か、「初冬」の頃には、皆、ちょいとした「ドロシー」気分になれました。時折、強い風が吹いて風が廻り、校庭にかき集められた「落ち葉」を巻き上げるのです。実際は、「風の渦」にしか過ぎないのですが、それが、私たちには、「竜巻」に見えました。その「渦」を見つけると、竹箒の手を止めて、じっと見つめる者や、見つけた途端、走っていって足で踏んづけて、消してしまう者などが出てきます。それも楽しい遊びだったのですが、普通の日本人は、そんな「風の渦」などくらいしか、「竜巻」を想像する術がないのですから、実物を、目の当たりにした人は、本当に怖かったことでしょう。
もう一つ、「竜巻」に関する思い出があります。中学生くらいになった時です。それは、もう、年も長けていますから、「関東大震災」の話や、「東京大空襲」の話などが少しわかってきます。一番怖かったのは、「火が渦を巻き、逃げ込んだ人々を呑み込む」という話でした。「コの字」型になっていた小学校の校庭や、建物のそばに逃げ込んだ人たちが、そこで、生き物のように、のたくっている「火」に包み込まれ、あっという間に「肺」も「身体」も焼かれてしまうという話でした。
それを聞いた時、真っ先に頭の中に浮かんだのは、「火」の「竜巻」です。きっと中世の人たちが描いた『地獄変』というのも、また、『阿鼻叫喚地獄』というのも、この「火」の「竜巻」抜きには、存在し得なかったにちがいありません。
「竜巻」のニュースから、話が、少々「オドロオドロしく」なってしまいましたが、さて、学校です。
「A・C・Eクラス」は、8月3日の「日光見学」の翌日から、夏休みになります。「B・Cクラス」は、それからも一週間、学校での勉強が続きます。
「休み」前に、「A・Bクラス」では、「数学」や「化学」、「物理」、「英語」の問題集(休み中の宿題)の申し込みや購入、また、夏休み中の学習計画などの作成をさせておかなければなりませんから、大変です。
「休み」中であろうと、今までの勉強のペースを落とさないように、「課題」を与えておかなければなりませんし、そのためにも、まず、用事がなかったら、何はともあれ、「学校に来て勉強をする」というパターンを崩さないようにさせておかなければなりません。「家でやる」ことを認めてしまったら、休み明け(8月の最後の週から9月のはじめにかけて)が、とんでもないことになってしまいます。調子を取り戻すためにしか使えなくなってしまうのです。
10月あたりから、「大学の入試」は始まりますし、11月には「留学生試験」、12月には「日本語能力試験」があります。「大学院」へ進みたい者も、「休み」の期間を活かして、「『卒論』のまとめや翻訳」、また「院の先生方」への連絡などに力を注いでいかなければなりません。8月や9月にオタオタしている暇など、ないのです。
それに、「Dクラス」にいる「非漢字圏」の学生達も目が離せません。二人は、はっきりと「大学進学」を目指していますから、「初級Ⅱ」が終わってからの「中級」を視野に入れさせておかなければなりません。「初級」後の「中級」は、急に文章が長くなり、「ルビ」も消えてしまいますから、それで頑張れなくなり、やる気を失ってしまうことにもなりかねません。三段階か四段階も上のものを、急に勉強させられるような、「怖じ気」を味わわせてはならないのです。
そのためにも、「百読、意、自ずから通ず」をやってもらわねばならないのです。つまり、「音読し、多読する」です。ここで、「多読」というのは、「たくさん読む」という意味ではありません。「何度も読む」という意味です。しかる後に「何度も、漢字を入れて書き写す」なのです。
「漢字」一つ一つを練習し、まず馴染むというのが、「第一段階」。「(漢字交じりの)単語」の「読み」に習熟することが、「第二段階」。それから、「文」、「段落」、「文章」を読んでいく練習が、「第三段階」。読めるようになってから、一歩一歩意味をとらせていくのが、「第四段階」。
この「第四段階」が、難しいのです。スラスラと読めても、意味が掴めないというのが多いのです。わずか、最長でも「一年半」かそこいらで、この段階までできなければ、「留学生試験」も「日本語能力試験(二級)」も、参加しても意味はないのです。
「漢字」一つ一つの意味が、理解できていなければ、「文章」の意味(「何を言わんとしているか」、また、「指示語」がさす内容など)もわかりませんし、それどころか、文の意味さえつかめないということにもなりかねません。
これらは、すでに(同じ勉強方法で)母国語でやり終えている「漢字圏」の学生には不必要なことなのですが、「非漢字圏」の学生にはそうはいきません。既出した「(漢字交じりの)単語」の読みを、「初級」レベルで終えていないと、「中級」になった時に、いくつもの読み方があることに、愕然とし、放心状態になって、やる気をなくすということにもなりかねないのです。
大半の国の人は、聞いて「物事を覚え、理解する」を習いとしているようですので、「字(漢字)は手で覚えろ」が、なかなか浸透しないのです。「漢字文化」圏の人間にとっては、「言わずもがな」のことなのですが。
日々是好日
一昨日の晩から今朝にかけて、27日に発生した「竜巻」関連のニュースで持ちきりです。ここ数年のことのような気がします、「竜巻」とやらを日本でも話題にし始めたのは。勿論、アメリカなどの巨大「竜巻」とは、全くスケールが違います。
けれども、「竜巻」は「竜巻」なのです。自動車が浮いて、クルクル回ったと言います。見た人は、すぐに、「あれが、『竜巻』だ」と気がついたでしょうか。もし、私があの場にいたとしたら、どうしていいか判らず、茫然自失の体だったかもしれません。「台風」や「地震」は気づけても、「竜巻」なんぞは、遠い遠い世界の現象としか思えないのです。
私が「竜巻」という名や現象を知ったのも、アメリカの『オズの魔法使い』を読んでからです。ですから、「竜巻」というのは、いわば、「物語」の中の出来事だったのです。いくら映像で、アメリカの巨大竜巻を見ても、直ぐに「案山子さん」や「弱虫ライオン」の姿の方が浮かびます。現実味に乏しいのです。
ただ、小学校高学年で、校庭の掃除当番に当たった「秋の終わり」か、「初冬」の頃には、皆、ちょいとした「ドロシー」気分になれました。時折、強い風が吹いて風が廻り、校庭にかき集められた「落ち葉」を巻き上げるのです。実際は、「風の渦」にしか過ぎないのですが、それが、私たちには、「竜巻」に見えました。その「渦」を見つけると、竹箒の手を止めて、じっと見つめる者や、見つけた途端、走っていって足で踏んづけて、消してしまう者などが出てきます。それも楽しい遊びだったのですが、普通の日本人は、そんな「風の渦」などくらいしか、「竜巻」を想像する術がないのですから、実物を、目の当たりにした人は、本当に怖かったことでしょう。
もう一つ、「竜巻」に関する思い出があります。中学生くらいになった時です。それは、もう、年も長けていますから、「関東大震災」の話や、「東京大空襲」の話などが少しわかってきます。一番怖かったのは、「火が渦を巻き、逃げ込んだ人々を呑み込む」という話でした。「コの字」型になっていた小学校の校庭や、建物のそばに逃げ込んだ人たちが、そこで、生き物のように、のたくっている「火」に包み込まれ、あっという間に「肺」も「身体」も焼かれてしまうという話でした。
それを聞いた時、真っ先に頭の中に浮かんだのは、「火」の「竜巻」です。きっと中世の人たちが描いた『地獄変』というのも、また、『阿鼻叫喚地獄』というのも、この「火」の「竜巻」抜きには、存在し得なかったにちがいありません。
「竜巻」のニュースから、話が、少々「オドロオドロしく」なってしまいましたが、さて、学校です。
「A・C・Eクラス」は、8月3日の「日光見学」の翌日から、夏休みになります。「B・Cクラス」は、それからも一週間、学校での勉強が続きます。
「休み」前に、「A・Bクラス」では、「数学」や「化学」、「物理」、「英語」の問題集(休み中の宿題)の申し込みや購入、また、夏休み中の学習計画などの作成をさせておかなければなりませんから、大変です。
「休み」中であろうと、今までの勉強のペースを落とさないように、「課題」を与えておかなければなりませんし、そのためにも、まず、用事がなかったら、何はともあれ、「学校に来て勉強をする」というパターンを崩さないようにさせておかなければなりません。「家でやる」ことを認めてしまったら、休み明け(8月の最後の週から9月のはじめにかけて)が、とんでもないことになってしまいます。調子を取り戻すためにしか使えなくなってしまうのです。
10月あたりから、「大学の入試」は始まりますし、11月には「留学生試験」、12月には「日本語能力試験」があります。「大学院」へ進みたい者も、「休み」の期間を活かして、「『卒論』のまとめや翻訳」、また「院の先生方」への連絡などに力を注いでいかなければなりません。8月や9月にオタオタしている暇など、ないのです。
それに、「Dクラス」にいる「非漢字圏」の学生達も目が離せません。二人は、はっきりと「大学進学」を目指していますから、「初級Ⅱ」が終わってからの「中級」を視野に入れさせておかなければなりません。「初級」後の「中級」は、急に文章が長くなり、「ルビ」も消えてしまいますから、それで頑張れなくなり、やる気を失ってしまうことにもなりかねません。三段階か四段階も上のものを、急に勉強させられるような、「怖じ気」を味わわせてはならないのです。
そのためにも、「百読、意、自ずから通ず」をやってもらわねばならないのです。つまり、「音読し、多読する」です。ここで、「多読」というのは、「たくさん読む」という意味ではありません。「何度も読む」という意味です。しかる後に「何度も、漢字を入れて書き写す」なのです。
「漢字」一つ一つを練習し、まず馴染むというのが、「第一段階」。「(漢字交じりの)単語」の「読み」に習熟することが、「第二段階」。それから、「文」、「段落」、「文章」を読んでいく練習が、「第三段階」。読めるようになってから、一歩一歩意味をとらせていくのが、「第四段階」。
この「第四段階」が、難しいのです。スラスラと読めても、意味が掴めないというのが多いのです。わずか、最長でも「一年半」かそこいらで、この段階までできなければ、「留学生試験」も「日本語能力試験(二級)」も、参加しても意味はないのです。
「漢字」一つ一つの意味が、理解できていなければ、「文章」の意味(「何を言わんとしているか」、また、「指示語」がさす内容など)もわかりませんし、それどころか、文の意味さえつかめないということにもなりかねません。
これらは、すでに(同じ勉強方法で)母国語でやり終えている「漢字圏」の学生には不必要なことなのですが、「非漢字圏」の学生にはそうはいきません。既出した「(漢字交じりの)単語」の読みを、「初級」レベルで終えていないと、「中級」になった時に、いくつもの読み方があることに、愕然とし、放心状態になって、やる気をなくすということにもなりかねないのです。
大半の国の人は、聞いて「物事を覚え、理解する」を習いとしているようですので、「字(漢字)は手で覚えろ」が、なかなか浸透しないのです。「漢字文化」圏の人間にとっては、「言わずもがな」のことなのですが。
日々是好日