曇り。
あっという間に、「サクラ」の季節から「ハナミズキ」の季節になり、「ポピー」の花が実を結んでいる…かと思ったら、「デージー」やら「ハルジョオン」、「ハナニラ」などの花が咲き誇り、地面の上でもかなり賑わっています。
四月は何というのでしょうね、「三月は去る」で、三月が終わり、落ち着いた…と思っていたのですが、新入生クラスが始まると、担任は途端に忙しくなってきます。
まずは「ひらがな」ですね。「ありゃあ、ひらがなじゃねえ」とぶつくさ言ってしまうのは、新入生担任になった者の弁。しつこく数ヶ月掛けて、「ひらがな」テスト、「カタカナ」テストを繰り返してしまうこともあれば、今回の私のように、二年生になっても変わらないというか、変わる気がない者は変わらないと、最初の頃(まだ一週間ほどしか経っていませんから)はかなり厳しく注意しても、それをきちんと続けてやるつもりはありません。
四月に入っても、新学期に間に合わない者も4,5人いましたので、四日ほどは、最初に彼等の書く「ネパールひらがな」、「スリランカひらがな」の程度を見、それから三回ほど(3,4日)訂正を重ね、それが通じる相手かどうかを見てみました。
授業の一環として「ひらがな」を教えたのは、まだ、一回だけなのですが、その前段階として、早めに登校してきた学生を主に三十分ほど指導して、はっきりと変わってくれたのは四人だけ。ミャンマー人一人、ネパール人三人です。スリランカ人はどうも…文字に手こずりそうですね。
文字の変形に同じ形が見られることから、母国での彼等の教師の問題で、彼等の問題ではないのですが、一度(脳に)入ってしまった文字の形は、おいそれとは変わりません。本人の「自覚」と、本来なら不必要であったであろう「努力」も必要となってきます。
その点、スリランカ人は頭の善し悪しに関係なく、「ヒアリング」には長けていますので(他の国の学生に比べ)、それだけで自分は「すごい」となって満足してしまうようなのです。聡明な人は「上」と自分とを比べ、努力する傾向にあるのですが、そうではない普通の人は、自分と「下」と比べ(彼等の場合、「ヒアリング力」だけを見、「文字」や「文法」など、他の学生が自分より上の部分は見ないようなのが不思議なのですが)、「こんな簡単なことがわからないのか」で、そこで、進歩や発達が止まってしまうのでしょう。
「読み・書き」ができないと、自然と、「日常会話」で終わってしまい、会社で遣うような言い回し(少なくとも「N1」程度の文法は必要です)や専門性のある言葉(最近は英語の単語が増えたとは言え、漢字の熟語も少なくない)は、身につかない。
学校での授業は受け身となり、「聞いた、わかった『つもり』」で、おしまい…となる傾向にある。もちろん、同じスリランカ人であっても、きちんと努力できる人、つまり学校側が言うとおりにできる人もいますので、そういう人が、スリランカ新入生の中に一人でもいますと、思わず、こちらは「ラッキー」と叫んでしまいます。
今年はどうでしょうね。『みんなの日本語1・Ⅱ』レベルまでなら大きな顔ができる…で終わってしまうと、情けない結果になりそうなのですが。
日々是好日
あっという間に、「サクラ」の季節から「ハナミズキ」の季節になり、「ポピー」の花が実を結んでいる…かと思ったら、「デージー」やら「ハルジョオン」、「ハナニラ」などの花が咲き誇り、地面の上でもかなり賑わっています。
四月は何というのでしょうね、「三月は去る」で、三月が終わり、落ち着いた…と思っていたのですが、新入生クラスが始まると、担任は途端に忙しくなってきます。
まずは「ひらがな」ですね。「ありゃあ、ひらがなじゃねえ」とぶつくさ言ってしまうのは、新入生担任になった者の弁。しつこく数ヶ月掛けて、「ひらがな」テスト、「カタカナ」テストを繰り返してしまうこともあれば、今回の私のように、二年生になっても変わらないというか、変わる気がない者は変わらないと、最初の頃(まだ一週間ほどしか経っていませんから)はかなり厳しく注意しても、それをきちんと続けてやるつもりはありません。
四月に入っても、新学期に間に合わない者も4,5人いましたので、四日ほどは、最初に彼等の書く「ネパールひらがな」、「スリランカひらがな」の程度を見、それから三回ほど(3,4日)訂正を重ね、それが通じる相手かどうかを見てみました。
授業の一環として「ひらがな」を教えたのは、まだ、一回だけなのですが、その前段階として、早めに登校してきた学生を主に三十分ほど指導して、はっきりと変わってくれたのは四人だけ。ミャンマー人一人、ネパール人三人です。スリランカ人はどうも…文字に手こずりそうですね。
文字の変形に同じ形が見られることから、母国での彼等の教師の問題で、彼等の問題ではないのですが、一度(脳に)入ってしまった文字の形は、おいそれとは変わりません。本人の「自覚」と、本来なら不必要であったであろう「努力」も必要となってきます。
その点、スリランカ人は頭の善し悪しに関係なく、「ヒアリング」には長けていますので(他の国の学生に比べ)、それだけで自分は「すごい」となって満足してしまうようなのです。聡明な人は「上」と自分とを比べ、努力する傾向にあるのですが、そうではない普通の人は、自分と「下」と比べ(彼等の場合、「ヒアリング力」だけを見、「文字」や「文法」など、他の学生が自分より上の部分は見ないようなのが不思議なのですが)、「こんな簡単なことがわからないのか」で、そこで、進歩や発達が止まってしまうのでしょう。
「読み・書き」ができないと、自然と、「日常会話」で終わってしまい、会社で遣うような言い回し(少なくとも「N1」程度の文法は必要です)や専門性のある言葉(最近は英語の単語が増えたとは言え、漢字の熟語も少なくない)は、身につかない。
学校での授業は受け身となり、「聞いた、わかった『つもり』」で、おしまい…となる傾向にある。もちろん、同じスリランカ人であっても、きちんと努力できる人、つまり学校側が言うとおりにできる人もいますので、そういう人が、スリランカ新入生の中に一人でもいますと、思わず、こちらは「ラッキー」と叫んでしまいます。
今年はどうでしょうね。『みんなの日本語1・Ⅱ』レベルまでなら大きな顔ができる…で終わってしまうと、情けない結果になりそうなのですが。
日々是好日