日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「梅の木の 枯れたる枝に 鳥の居て 花咲け咲けと いふぞわりなき」。思いは同じ…時もある。

2021-09-01 08:53:38 | 日本語学校
曇り。

昨日は日が暮れてから、しめやかな雨音が…。

長雨というわけにはいかなかったようですが、ここ数日、夏に戻ったかのような暑さが続いていましたから、ホッとしてしまいました。雨音はいいですね。特に涼しさを感じさせてくれるような時には。


そして今朝。涼しい。夏だけれども、風に秋の気配がする…どころではなく、もう秋の風です。

中学生の頃、「警句」というか、そんなものが好きな校長がいました。面白いもので、子供でもすぐに覚えてしまえました。もしかしたら、説明というか、喩えが上手だったのかもしれません。いまだに、ふと思い出したり、何かの書でみて懐かしんだりしています。その中に、

「一升枡には一升しか入らない」とか
「立って半畳 寝て一畳 天下取っても二合半」、
「世は七下り七上り(ななくだりななあがり)」、
「人の心は九分十分(くぶじゅうぶ」などがありました。

人や自分を顧みるとき、これらの「ことわざ」はとても役に立ちました。自分を救ってくれたり、時には人への不満を和らげてくれたりしたのです。

いつの間にか、こんな「ことわざ」ばかりが気になって、「お年寄りみたいだね」と友人にからかわれたりしたものです。

それから、高校生になって、日本史の授業が始まると、先生が「川柳」や「狂歌」に特別の時間を割いて、説明してくれました。それがとても面白かった。聞いているうちに、それまで「切った張った」だけの「歴史」であったものが、「社会を知る文化」を含めたものになっていきました。強者だけのものでも、弱者だけのものでもない「歴史」が見えてきたような気がしたのです。

なにせ、自分の中では「川柳」も「狂歌」も、「文学」の世界で一括り。で、何となく煙たかったのです。

クスリと笑ってしまうような句や、考えさせられるような句、当時の社会情勢をさりげなく盛り込んだり、人情の機微を感じさせてくれたり、無限の世界が拡がっていました。

ただ、当時の社会や「本歌」が判らなかったら、理解しづらいものも多く、自分のレベルで、それなりに理解できるようなものは、あまり多くはありませんでした。

それからは、つられて、室町期のものなども読んでいきました。すると、当時から、くすぐりめいた和歌というか、もうこれは文化文政年間の狂歌と比べても引けを取らぬ…と思われるようなものも多々あり、それがとても楽しかった。これでは学校の勉強とは両立するはずがありませんね。

とはいえ、この年になりますと、また興味は変わり、「ことわざ」にハッとさせられることが多くなりました。中学校の時の校長の年を既に越えているからかもしれませんが。

「日本語」を教えていると、「言語」には文化習慣というのが含まれていますから、二十歳くらいならどうにかなっても、かなり年が上になりますと、それが、だんだん大変になってきます。そして、中には不平不満が募って来る人もいます。

それ故、「矯めるなら 若木のうち」とも思いますし、同時に厳しくしすぎたときには、「若木に 腰掛けるな」で自分を戒める…ときもある。

また、無理を言う人(Aさんが一年で「N2」に合格した。…つまり、自分もそうなるはずだという理屈の下に話を始めるような人)に、「梅の木の 枯れたる枝に 鳥の居て 花咲け咲けと いふぞわりなき」と思ったり。

そうかと思うと、「柿食ひに 来るは 烏の道理かな」で、しょうがないと思ったり。

当然のことながら、「だれでも 自分の荷が一番重いと言う」ものですから、「自分一人が(他の人よりもずっと)頑張っている、自分が一番大変だ」と言う人には、「はい、はい」と言っていられたり。

どちらにせよ、「無理というのは 人の心がつくるもの」ですから、こちらも余裕を持って対せばいい。先人達はいいものを残してくれていますね。

日々是好日
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