イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「科学者はなぜ神を信じるのか」読了

2023年03月24日 | 2023読書
三田一郎 「科学者はなぜ神を信じるのか」読了

「宇宙と人類を創造して世界の運行を司る、全知全能の絶対者」というのが広辞苑に出てくる『神』の定義であるらしいが、科学者の使命とは領域を次々に自然法則で説明し、相対化していくことであった。
しかし、そこには大きな葛藤があった。
ここで言う『神』とは、西欧世界、特に旧約聖書の世界における神のことであるが、そこで生まれ育った人々には心の中には多かれ少なかれ聖書の考え方が染みついているのだと思う。日本人が“神頼み”だなどと言っていることとは重みが全然違うのだ。
旧約聖書の冒頭、神は「光あれ。」と言って光を作り、その後天と地を作り、植物、動物をつくり、最後に人間を自らの形に似せて作った。都合6日間で神が創り出した世界、これがその後の西洋の、ひいては人類の科学の発展の足枷になってきたのである。

聖書では神の意志に基づいて作られたと書かれてはいるが、自然科学が解明してゆく宇宙の姿というのは、それとはまったく異なる姿をしていた。
この本は、「なぜ神を信じるのか」というよりも、神を信じる科学者が、自らが次々と解明してゆく自然の摂理と聖書が描く宇宙の姿との違いにどう折り合いをつけてきたかということが書かれているように見える。革新的な考えは教会からは異端とされ、迫害を受ける。そういう意味では、聖書と折り合いをつけるというよりも、教会とどう折り合いをつけてきたのか。そういうことであったとも言える。
これは物理学の世界だけはなく、生物学の世界でも同じだったのであるが、著者は物理学者なので物理学、とくに素粒子物理学を含めた宇宙の始まりや天体の運行についての力学を発見した科学者たちが神の存在をどう考えていたかということを物理学の発展の歴史と共に紹介している。
ちなみに著者自身も素粒子物理学者であり、カトリック教会の助祭でもある。
宇宙の姿を解明しようとする物理学の歴史の中で、エポックメイキングな業績を上げてきた科学者は神の存在をどのように感じ取ってきたのだろうか・・。

地動説の最初の提唱者は16世紀のコペルニクスだと言われているが、それよりももっと前、紀元前500年代のピタゴラスが最初であった。宇宙の中心には、よくわからないが「火」というものがあってその周りを地球や太陽が回っているというので実際の宇宙の姿とはかなり違うものの、とにかく地球は宇宙の中心ではないという考えがこんな昔からあった。
それまでは、多分、世界は平らでその周りを星が回っていると考えられていたのだから飛躍的な進歩だ。
それを再び後退させたのはアリストテレスだ。紀元前300年代の人らしいので200年で古い考えに逆戻りした。雨や放り投げた石が地面に落ちてくるのは宇宙の中心が地面の下にあるからだということがその根拠だが、その考えがキリスト教に受け継がれた。
しかし、それは必然であったわけではなく、トマス=アクイナスが書いた「神学大全」(1273年完成)がたまたま協会公認のテキストとされたからだ。
その中に書かれている『宇宙の中心に神が存在する地球があり、太陽やそのほかの天体は神の手によって天球を動かされているのだ。』という考えは、当時の教会にとってはその正当性を主張するための絶好の後ろ盾となったのである。
それを打ち破る結果となったのが、コペルニクスの「天球の回転」という書物だ。コペルニクスはこの書物の中に書かれている考えのとおり地動説を考え出したが、これは間違いなく教会の教義に反すると考えて出版をためらい、支持者の支援によってようやく出版されたのは1543年5月24日、コペルニクスが亡くなった日と同じ日であった。
それから70年ほど経ち、ガリレオ・ガリレイが当時発明された望遠鏡を使った観測で、これはもう間違いなく地球は動いているという確信を得た。
同じ頃、ケプラーは師匠のティコ・ブラーエが残した大量の観測データを分析し、惑星の軌道は楕円であるというケプラーの第1法則から第3法則までを発表した。

コペルニクスとガリレオ・ガリレイ、ケプラーのスタンスだが、ガリレオ・ガリレイはその少し前に天動説を否定したジョルダーノ・ブルーノが火あぶりの刑に処せられてしまったということがあったので自分の命を守るために自らの考えを否定するしかなかった。コペルニクスは天動説を支持している教会に反した考えを発表することにためらったけれども、発表したのちにはカトリック教会はあまり相手にしなかった。しかし、革新派であるプロテスタントのルターからは強い非難を浴びたそうだ。カトリック教会の司祭があろうことか地動説を唱えていると政争の具とされたのだ。
対して、ケプラーはプロテスタントであったため、異端審問にかけられることはなかった。
こういう結果をみてみると、教会というのはまったく非科学的で自分たちの都合だけでものを言っているということしか見えてこない。

この時代までの科学者たちは、神を信じるか信じないかという以前に、神=教会にひたすら遠慮と恐れを抱きながら自然の事実を追い求めているように見える。自然世界は美しく単純な法則によって成り立っていて、神はなぜ宇宙をこのように作ったのかを知るのが科学であると考えていたのである。
そしてこの頃に、ダーウィンの「種の起源」が出版され、物理学と神の関係も大きく変わってゆく。
その後、1665年6月~1667年にかけてニュートンが発見した「ニュートンの運動方程式」と「万有引力の法則」は、ケプラーが発見した、「天体はいかに動くか」ということに加えて、「なぜ動くか」ということまで解明する結果となった。そして、この運動方程式と万有引力は、ある瞬間の、地球上での場所と速度がわかればある物体の過去から未来にわたるすべての時間での速度と場所が理論上では計算できてしまうことになった。これは全知全能の神でなくても未来が予見できてしまうことを意味していた。

コペルニクスやガリレオの地動説は、神の居場所に変更を要求したかもしれないが、神の存在そのものまでを危うくするものではなかった。彼らはただ純粋に、神の意志がこの世界にどう映し出されているかを追い求めていればよく、教会との軋轢のほかには神に疑問を感じることはなかった。
しかし、ニュートンの発見は質的に違っていた。ニュートン力学によって神は「天界」という聖域を侵され、「天体の運行」という秘儀を失い、「全知全能」という絶対的な権威までも揺るがしかねない事態となった。
フランスの数学者ラプラスは、『もし、ある瞬間におけるすべての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつ、もしそれらのデータを解析できるだけの能力をもった知性が存在するとすれば、不確実なことは何もなくなり、その眼には未来も(過去同様に)すべて見えているであろう』と語った。かつてはそのような知性が神であると考えられていたが、ニュートン力学で計算可能なデータさえそろっていれば神ではない別の知性でもそれができてしまうということとなった。後世のひとたちはそのような知性を「ラプラスの悪魔」と呼ぶようになった。

そうはいっても、ニュートンも熱心なキリスト教の信者であり、自分の科学の中にはどんな形で神が宿っているのかというと、自分がいかに神業を解明しようとも、美しい天体や宇宙を造った神について、その意図するところや力のすべてを理解することは不可能であると考えていた。謎の先にはもっと謎なものが存在し続けるというのである。それが神そのものであると考えたのである。

20世紀に入り、アインシュタインの相対性理論は光だけが絶対的存在で時間や空間は可変するのもだということを発見した。
ルメートルはその理論を基にして膨張宇宙論を作った。膨張宇宙というとハッブルが銀河の動くスピードを観測したことで発見したとされるがじつはこの人のほうが早かったそうだ。それを、観測を通して実証したのがハッブルであったのだ。
アインシュタインは無神論者だと言われているが、宇宙は不変のものだという考えを持っていて相対性理論によって作られた方程式では宇宙が伸び縮みするというので「宇宙項」という定数を加えて宇宙は膨張も収縮もしないと決め込んだくらいなので、やっぱり神のような絶対的な存在はいてほしいと願っていたようである。だからルメートルの考えには納得できなかった。それは、神が「光あれ。」と初めに言ったという聖書の言葉を心に感じていたからたどり着けたのかもしれないとアインシュタインは考えたようだ。
ルメートルは物理学者であるがカトリック教会の聖職者でもあったらしく、これはキリスト教の教義にも反するし、自分は目立たないほうがよいと考えたか、それとも科学と宗教の対立を煽るような結果になってしまわないかと考えたか、あまり表立って主張することはなかった。それはこの人の述べた言葉、『聖書の執筆者はみな、「人間の救済」という問題について何らかの答えを得ていた。しかし、それ以外の問題については、彼らの同時代人たちと同程度に賢明、あるいは無知だった。だから、聖書に歴史的・科学的な誤りがあるとしても、それは何の意味もない。不死や救済の教義に関して正しいのだから、ほかのすべての事柄についても正しいに違いないと考えることは、聖書がなぜわれわれに与えられたかを正しく理解していない人が陥る誤解である。』によく表れている。
同じくアインシュタインも、『神は謎だ。しかし、解けない謎ではない。自然法則を観察すれば、ただただ畏敬の念を抱くばかりだ。法則にはその裁定者がいるはずだが、どんな姿をしているのか?それは人間を大きくしたような存在ではないことは確かだ。』と言い、『聖職者たちはいつの世も、自分たちの地位や教会の財産が保護されさえすればよく、何世紀にもわたって妥協を重ねてきた教会からは、世界が求めている新しいモラルなど生まれることはない。』と辛辣な意見を述べている。本当の神は教会が定めている神とは似ても似つかないものであると言っているのである。

その後、量子物理学はさらなる発展を遂げ、アーネスト・ラザフォードや長岡半太郎は原子はさらに原子核と電子に分割されることを発見し、さらにニールス・ボーアは電子は粒ではなく波であるという見解を示した。そして、エルヴィン・シュレーディンガーとヴェルナー・ハイゼンベルクは、粒子の場所と運動量を同時に厳密に測定することはできないという不確定性原理を発見する。ここまでくると、神が宇宙の何もかもを決定づけているということが崩壊する事態となってしまった。
さらに、ポール・ディラックは、真空のエネルギーという概念を考え出した。それの元になっているヴォルフガング・パウリの排他原理というのはさっぱりわかないが、とにかく、真空の中で、正のエネルギーと負のエネルギーが生まれることによって何もないところに凸凹ができて物質が形作られたのだという。そこにはもう、神が世界を作ったという事実は消えてしまったように思う。

量子論のなかでは同じ結論を得た科学者たちだが、神に対する見解は人それぞれだ。アインシュタインの光量子仮説に大きな影響を与えたマックス・プランクは、『科学は客観的に物質の世界を語る。現実を正確に観測してさまざまな関係を理解しようとする。他方で宗教は主観的にこの世界を語る。何が正しいか、何をすべきかを語り、それが何であるかを語らない。』と考えたし、パウリは、宗教が始まった時代には、コミュニティの底辺の人たちに様々な知恵や価値観の枠組みを理解させるための枠組みが必要であった。それが宗教の役割であったのだが、新しい知識の発見の時代になるとこれがかえって足かせになったのではないかと考えた。
ディラックは、神は全能の存在であるとい定義には意味はないと考える。神が防げるはずの多くの悲惨さと不公平、裕福な者による貧困の搾取をどうして許すのだろうかというのである。
ハイゼンベルクは、そんなディラックの考えに対して、『人間社会が常に存在する以上は、生死について、そして生活について、広い文脈で共通の言葉を見つけねばならない。そうした共通言語の検索から発展した霊的な形態をもった宗教は歴史的にみても大きな説得力を持っているのである。』と反論する。
なんだかみんなバラバラな意見のように思うが、成熟した物理学を極めた人たちのこれらの考えは、多分、この本のタイトルの答えを出しているのだと思う。
科学と神は切り離したくてもどうも切り離せない。そんなところだろうか。

そしてとうとう、スティーブン・ホーキングは虚数時間という考え方を導入し、宇宙には始まりがなかったという考えに到達する。神は何も創造しなかったというのである。ホーキングは無神論者であったと言われているが、有名な書籍の「ホーキング、宇宙を語る」の最後は、『なぜわれわれと宇宙は存在するのだろうか。もしそれに対する答えが見いだせれば、それは人間の理性の究極的な勝利となるだろう。なぜならそのとき、神の心をわれわれは知るのだから』という文章で締めくくられている。
そういう意味では、人類はまだ、宇宙の成り立ちのすべての理論を解明したわけではない。
本当に神が存在しているとしたら、人類がすべての理論の扉を開いたとき、神はきっと、「よう来たな・・。」と答えてくれるのだと思うのである。



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