イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「未完の天才南方熊楠」読了

2023年12月05日 | 2023読書
志村真幸 「未完の天才南方熊楠」読了

土曜日は風が強くて釣りには出かけられず、日曜日はなんとか行けそうだと思って早く寝たら、日付が変わるころにスマホの音で目が覚めた。なんだ?と思ったら津波注意報が出たという。外からもサイレンや防災無線の音が聞こえてくる。フィリピンのミンダナオ島で地震があったらしい。



1メートルの予想というのはけっこう危機感を感じる値だ。もう一度寝るか、午前3時(和歌山港は午前3時半)の予想到達時刻に様子を見に行くか思案をしながらこの原稿を書き始めた。しかしその前に、僕のお腹に津波警報がやってきた。最近の傾向だが、何日かに一度、真夜中に便意をもよおす。一度トイレに行くとそれから1時間ほどは何度も行く羽目になる。今夜もその状態に陥ったのである。
結局、それからも眠ることができず、午前3時に家を出たのだが、大山鳴動して鼠一匹、特に何の問題もなくやり過ごすことができたのである。




久々に見つけた南方熊楠に関する本は、熊楠が残した業績を、「未完」というキーワードで分析している。
著者は南方熊楠顕彰会理事という肩書も持っている学者だそうだが、熊楠は人類史上最もたくさん文字を書いた人だと言われている通り、膨大な量のメモや資料を残し、すべてを目録として整理しきれていないのが現状だそうである。
それだけたくさんの研究なり調査なりをしていた熊楠だが、何を成し遂げたかというと確かにわからない。
植物学に始まり、民俗学、環境保護、海外雑誌への投稿など、その活動は多岐に渡る。語学は研究の手段だったのだろうけれども、これにも相当傾倒していたそうだ。抜き書きという出版物の書写も途中でやめてしまったものも多数あるということで、それぞれを「未完」に終わらせてしまったのはなぜだろうかと考察をしているのだが、熊楠の心の奥までには到達しきれていないのだろうなという感想だった。
確実にこういう理由で未完になったのだろうというものはある。例えば、抜き書きの作業だが、時代を経るにつれて印刷技術が進歩することで本自体の入手が容易になったのだというのはもっともだ。歳で目が悪くなってきてもいたそうだが。
海外雑誌への投稿については自然科学系の学問が細分化し、雑誌自体も博物学的なものから自然科学の専門雑誌へと変わり、古典文献の引用が中心で実験データを持たない熊楠にとっては場違いなものになっていき、期待もされなくなってきたそうだ。
こういったことを見ていくと、熊楠も時代の変化についてゆけなかった、もしくはついて行きたくなかったというのではないかと思えてくる。それに加え、人嫌いというものが加わって未完にせざるを得なかったということになるのかもしれないと僕は考えた。

民俗学は柳田国男との確執、環境保護活動については父親の父祖の地にあった大山神社の合祀を阻止できなかったことへの落胆からだということだが、それも結局、その運動の中心的人物であった従弟との確執であったような気がする。
また、晩年は田辺からほとんど出ることがなかったというのもきっと人嫌いというものがあったのだろうと思う。大学の教員としての誘いもあったそうだがそれも断り、わずか数日のことであっただろう、天皇からの招待にも応じなかったというのだから徹底しすぎているというものだ。最晩年はキノコ(菌類)の研究をしていたそうだがこれは全国の分布を調べなければならないものの、それもやらなかったという。人に頼ったり人を使うということが苦手だったのだろう。こういうところは牧野富太郎とはかなり違うのである。

田辺を出なかったということにはもうひとつ理由があったそうだ。それは当時から始まった郵便制度だそうだ。日本は1877年に万国郵便連合というものに加盟し、安価で外国にまで郵便を届けることができるようになった。雑誌の購入もそれへの投稿も田辺という田舎から簡単にできるし、書物の購入もできる。文献を当たって研究を続けていた熊楠にとっては田辺で十分事足りたということだ。今でいえば、インターネットとSNSを駆使して田舎暮らしをしているというようなものだから、最先端の生き方をしていたといえる。さすが熊楠だ。

人嫌いはイコール、自己肯定感の弱さでもあると僕は僕自身のことを考えながら思うのであるが、熊楠も、外から見られていた偉大さと自分自身が考える自分像には相当なギャップがあったに違いない。何かを成し遂げたいと思う気持ちも、自分はそれができるという自己肯定感がなければ無理だろう。
著作が少ないのも、「こんなの本にしても誰も買わないだろう」というあきらめがあったのかもしれない。学問をするというのは自己満足で十分だと思ったのかしれないということだろう。
まあ、僕がそう思っているだけで熊楠の真意は凡人が計り知れるわけがないが・・。


65歳前後には雑誌の購入や投稿も止め、少しずつ研究分野の幅を狭めてゆき、最後は邦文の論考と自分が診た夢の研究にだけ意欲を燃やしていたという。長く海外に暮らし、晩年まで外国と接点を持っていた熊楠も、日本人とは何かということと、自分は一体何者であったかということが最後に残った疑問であったということだろうか。

どちらにしても、後世の人たちにたくさんの謎を残して逝くことができたというのは、熊楠にとってはしてやったりというところなのかもしれない。

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