イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「魚にも自分がわかる」読了

2023年12月02日 | 2023読書
幸田正典 「魚にも自分がわかる」読了

以前、「魚は痛みを感じるか?」という本を読んで、これは僕にとっては切実な問題だと感じたことがあるが、この本も僕にとっては切実な問題を提起している。

生物にとって、「自分がわかる(自己意識がある)」ということは、意識があり、自我があるということを意味する。普通ならそういう意識というものを持っているのは人間やサルくらいだろうと思ってしまうが、脊椎動物の中では最も原始的であると思われている魚類もそういった意識を持っている(かもしれない)というのである。著者は様々な実験を通してそれを証明しようとしている。

冒頭から驚きの事実が書かれている。
学校時代に習った、脊椎動物の脳の発達というのは、魚が持っている原始的な領域、すなわち、生命維持に必要な部分や反射を担う部分に、進化が進むにつれ感情や意識をつかさどる部分が付け足されて最終的に人間の大脳皮質というようなもの至ったということであったが、著者によると、魚の脳もすでに小脳や大脳という区分けができる形になっていて、脳から出ている神経系の本数(眼を動かしたり、身体の各部分を動かす神経)も人間と同じ12本を持っているというのである。12本のうち、眼を動かす神経が4系統もあるというのも驚きではある。それほど眼というものは生物が生き延びるために重要なものであるらしい。
人間との違いはその大きさが違うだけであるというのである。だから、この本で展開されている魚の自己意識は人間が現在持っている自己意識の起源になっているに違いないと著者は考えている。

自己意識には、大きく三つのレベルがあるとされている。そのレベルとは、①外見的自己意識、②内面的自己意識、③内生的自己意識である。
① の外見的自己意識とは、自分の手足、体などが、自分の身体であることがわかっている状態。
② の内面的自己意識とは、自分というイメージ(心的表像)を持ち、そのイメージと照らして自己認識している状態。これは、自分自身を見つめる自己意識であるともいえる。
③ の内省的自己意識とは、自分が内面的自己意識をしていることを、わかっている、自覚し意識している状態である。この状態はヒトにはあるが他の動物での検証事例はほとんどない。
と定義されているが、著者は少なくとも、魚には②の、内面的自己意識は間違いなくあり、ひょっとして③の内省的自己意識までも持っているのではないかと考え、様々な実験を通してそれを証明しようとしている。

その実験内容とはこんなものだ。
まず、自分がわかる前に、他魚を他魚として認識しているかということを検証する。
この時の実験台は、プルチャーというシクリッドの仲間を使っている。
プルチャーの生活を観察していると、陸上で暮らすウシやヒツジ、サル類という脊椎動物に引けを取らない複雑な社会生活を持つことがわかってきた。陸上の脊椎動物たちはその社会生活を維持するために顔で相手個体を識別しているが、同じように社会生活を持つ魚は相手個体の識別はどうやっておこなわれているのかというところから実験が始まった。
小魚は相手が危険かどうかを判断するとき、大きな目や大きな口を持った相手は危険だと判断して逃げる傾向があるというこいとが分かっているのでプルチャーもきっと陸上哺乳類と同じように相手の顔を認識しているという仮定のもとに実験は組み立てられた。
プルチャーは集団で生活をしているが、個々は縄張りを持って生活をしている。隣同士の魚たちはお互いに縄張りを侵さずに境界を守って生活している。こういう関係を「dear enemy関係(親愛なる敵関係)」というそうだが、これに対して、未知の個体には激しく攻撃をするそうだ。そこで、隣人同士として飼い慣らした個体を実験台にして、顔だけを他者に置き換えたものやその逆の写真を作って見せてみると、顔は隣人で体は他者のものにはあまり攻撃を加えないが顔を他者に置き換えたものに対しては激しく攻撃を加えるということがわかった。
ということは、プルチャーは間違いなく相手が何者であるかということを、顔を見て判断していることになるということがわかった。

次に、いよいよ本題の魚は「自分のことがわかる」のかという実験である。これには、「鏡像自己認知実験」と「マークテスト」という方法が使われた。使う実験台はホンソメワケベラである。
類人猿でもその他の脊椎動物でも、鏡を見せると最初は威嚇行動をとるが、その後は、普段やらないような行動を映すことで鏡像が自分だということを認識し始めるという。
マークテストというのは、チンパンジーなどの霊長類に鏡を見せて自己認識するのかどうかということを実験するテストだった。対象のおでこに赤いマークを付けた状態で鏡を見せた時、自己認識していればそのマークに疑問を持ってそれを触るはずだというのである。最初に赤いマークを使ったというので「ルージュテスト」などと呼ばれることもあるそうだ。実際、チンパンジーやゾウ、カササギなどの鳥までもが自己認識の行動をするということがわかった。
では魚はどうだろうかという実験をするとき、手のない魚にどうやってマークを触らせるかということが問題になった。そこで著者が思いついたのがホンソメワケベラだった。
この魚は、他種や同種の魚の体表に付いた寄生虫を食べるという性質があり、寄生虫やそのような模様に敏感に反応するであろうと考えたのである。それと、この魚は熱帯魚屋さんで安く買える魚だから実験費用も安く上がるらしい。

実験は、ホンソメワケベラのお腹に茶色の染料を注射して鏡を見せるというものだ。
結果は著者の予想通り、鏡を見たホンソメワケベラは水槽の中にある石でそのシミをこそげ落とそうとする行動をしたそうだ。それもほぼ100%の確率であった。
さらにちゃんとシミが落ちたかどうかを確認する動作まですることもあるという。
その自己意識をする方法だが、人間では「顔心象」という方法が取られるという。他人を識別するときでも、心の中にその人の心象がありそれと対照を照合することでこの人は誰々だということを認識するのだが、自分自身の心象を作ることで自分を認識する。ホンソメワケベラもこれをやっていると仮定し、これを著者は「自己顔心象認識仮説」と呼びさらに実験をおこなう。
プルチャーのときと同じように顔と胴体を差し替えた合成写真を作り実験台に見せるという実験だ。合成写真が他人に見えたら攻撃するはずだが、やはりホンソメワケベラは自分の顔が合成された写真には攻撃をしないという結果が出た。
やはりホンソメワケベラは自分の顔がわかるのである。

著者はこのホンソメワケベラのこういった結果をふまえて学会の権威を批判もしている。
人間以外の鏡像自己認識という研究は、1970年ごろにゴードン・G・ギャラップという行動生物学者が初めておこなったそうだ。著者たちが論文を科学雑誌に発表しようとしたとき、その時の査閲で激しい批判をしたひとりがこのゴードン・G・ギャラップというひとだったそうだ。1941年生まれの学者だそうだが、こういった世代の人たちは、デカルトの動物機械論という考えが根底にあり、自己意識を持つ生物はせいぜい類人猿までであるという既成概念に縛られているというのである。
この人がおこなったマークテストでは、チンパンジーでは40%、インドゾウでは30%、カササギで40%程度の合格率だったそうであるが、それに比べるとそれより下等とされるホンソメワケベラが100%近い合格率となると学会の権威を背負っている学者たちは困ってしまうのである。
しかし、著者は、この低い合格率こそが学会の闇の部分だという。ゴードン・G・ギャラップの実験はルージュテストと言われる通り、赤いマークを使っていた。チンパンジーにとってはおでこを赤く塗られようが青く塗られようがまったく生命の危険はない。対して、著者たちがおこなった実験では、寄生虫に似せた色を使うことによって魚本人に、これを放っておくことはできないと思わせることができたのである。
著者曰く、こんなことは少し考えると簡単にわかるはずのことであるが、50年間、誰もそれをやろうとはしなかった。チンパンジーでも、アブやハチの写真を貼ってやったら結果はまた違ったものになったであろうと著者は考えている。
意識を持つのは霊長類以上(以上と書いている僕もきっとその一員なのかもしれないが・・)だと決めつけた人には従い媚びるしかないのが権威の世界なのである。
ちなみに、「魚は痛みを感じるか?」の著者はこの結果を絶賛してくれたそうだ。

こういう話を読んでいると、魚は相当賢いということは間違いがないということになってくる。対して、人間の僕はどうだろうか・・。人間の脳の中で、文字を認識する部分は顔を認識する部分と同じだそうだ。それはどうしてかというと、文字は発明されてからはまだ5000年ほどしか経っておらず、脳の方が進化に追いつけずにいるので顔を認識する部分が代役をしているのだそうである。歳のせいでもなく、まったく漢字を覚えられないのは、その顔を覚える部分に欠損があるのに違いないという結論に思い至るのである。僕はそのせいでどれだけ損をしてきたことだろうか。会社というところで生きてゆくには人を覚えるということが絶対的な必要条件なのである。だから、ヒトという種の中では相当下等な部類に位置づけられてしまうのも仕方がないのである。
これでは魚との知恵比べに負けてしまうのも仕方がないのである。
こんなポンコツとして生まれてきたのは仕方がないとして、もっと問題なのは、魚の内省的自己意識とはどの程度の自己意識なのかというところである。ひょっとして「死」をも認識しているとしたらちょっと怖くなる。僕が釣った魚を〆ているとき、僕の顔を見ながら、「ああ、こいつはもうすぐ僕を殺すのだ。そして家に帰って僕を食ってしまうんだ・・。とんでもないやつだ。絶対化けて出てやるからな~。」などと思っているとしたらかなり怖い。

イカは脊椎動物ではないけれども、鏡面自己認識の実験では自己認識をするということが確認されているそうだ。僕は経験がないが、イカは人の顔をめがけて墨を吐くというのも納得ができると同時に、イカを釣り上げた時には「おいおい、これから何をするつもりやねん!!!」などと言いながらスッテにしがみついているのかと思うとこれまた恐ろしくなる。
ガシラなんかは、家に帰っても生きていることがある。かわいそうだと思いながらもエラに包丁を突っ込むであるが、もう、残酷の極みにほかならない。
これから先、魚を釣ることを躊躇してしまいそうだ。

この本の中に出てくる自己意識を持った魚はすべて鏡を見たことがある魚といえるのだが、願わくば、鏡を見ることによって魚は自己意識を目覚めさせるのであって、鏡を見たことがない魚はその意識をまだ覚醒していないのだと思いたい。そして、加太の海の底には鏡が落ちていないことを祈りたいのである。

これからは、僕は魚を釣ることが下手なのではなく、釣るのがかわいそうだから意図して釣らないのだという言い訳がまっとうなものだと言えるようになるのである。

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