まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大相撲も無観客開催

2020年03月02日 | ブログ
スポーツなどのイベントの中止や「無観客」開催が相次ぐ中、大相撲春場所について理事会にて「無観客」での開催が正式に決まった。世間の流れからして、数日前から「通常開催」はあり得ず、「無観客」か「中止」のいずれかになる見通しであると伝えられたが、結果は「無観客」となった。

聞くところでは大相撲の「無観客」というのは、太平洋戦争中に傷痍軍人だけを招待した本場所が行われたことがあったそうだが、観客を全く入れないというのは初めてのこと。八百長問題の時には春場所は「中止」、続く「技量審査場所」は無料という形で観客を入れていたから、力士、関係者やファンもどういう形になるのか未知の世界である。私や両親も観戦に行けなくなるのは残念だが、これは仕方がない。相撲協会としてせめてもの取り組みというのは、チケットの払い戻しを行うのと、テレビ、インターネット中継は従来通り行うというものである。懸賞金も出るそうだし、三賞の表彰も行うが、優勝者への副賞やパレードはないという。

テレビとしてはどういう映りになるのだろうか。「前相撲や序ノ口と同じような雰囲気」という声もあるが、これまで私が観戦した経験でいえば、確かに朝の8時半頃というのは観客もまばらだがゼロではなく、いい相撲には拍手も起こるし、力士と出身地が同じとか、部屋の後援会だかの人からの声援も起こる。今回は横綱や幕内の人気力士でもそうした歓声も起こらないということになる。テレビの向正面の解説の親方は、マス席の中に一人ちょこんと座っているのだろうか。いろいろ気になる。

これは勝手な思い付きだが、少しでも雰囲気を出すために、かつての取り組みでの歓声の音を体育館内に流すとか、取組のない若手力士や手の空いた呼び出しさんをマス席に座らせて「炎鵬」や「朝乃山」などのタオルを広げさせるとか、横綱が負けたら座布団を投げさせるとか・・・。いや、かえってわびしいか。

ある意味歴史に残る本場所になるとは思うが、朝乃山の大関挑戦、炎鵬の上位戦、先場所優勝の徳勝龍がどこまで力を出すかなど、見どころはあると思う。ファンの声援という後押しはないかもしれないが、その分それぞれの力士の実力や、モチベーションの維持というものが試される場所である。順当にいけば横綱の優勝のところ、ひょっとしたらまた意外な展開になるかもしれない。そうしたことも楽しんでみたいと思う。

また、相撲の土俵入りには地鎮や災厄払いの意味も込められている。都合のいいことと批判する人もいるだろうが、開催にあたっては、そうした「神事」の意味もアピールしてはどうかと思う。

余談だが、1~2月にかけて、新型コロナウイルスが日本でも感染拡大の騒ぎになりつつある頃に、各地でマラソン大会や行事が行われている様子が中国のネット社会で驚きをもって伝えられたそうだ。その中で反響が大きかったのが、2月15日に岡山の西大寺で行われた会陽だという。神木争奪に、1万人の褌姿の男たちが挑む「裸祭り」である。

西大寺のホームページをはじめ、いろいろ動画があるが、確かに異様に見えるかもしれない。主催者側は、体調が悪い人は参加しないよう呼び掛けたり、会場にアルコール消毒液を置いたりしたものの、褌以外は時計や眼鏡も禁止ということからマスクは禁止だった。それで、あのもみくちゃである・・。岡山県では新型コロナウイルスの感染者は確認されていないそうだが、もし会陽が2月29日開催だったら、どのような判断をしただろうか。

ここで出るのが「神事」ということだろう。何百年も続く行事と、コロナウイルスの「予防」を天秤にかけるとして・・いや数年前に死亡事故があっても取り止めになることはなかったくらいだから、国の自粛要請があったとしても、「神事」として普通に(他の行事は縮小するかもしれないが)行われただろう。それも伝統である。

話が長くなったが、こうした機会に、スポーツとは違う面も持つ相撲について、放送の中で神事としての歴史を取り上げてもよいのではと思う・・・。
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