まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第26番「伽耶院」~新西国三十三所めぐり・4(三木市の知る人ぞ知るスポットめぐり・その2)

2016年03月15日 | 新西国三十三所
三木総合防災公園から続く小道を下りる。水が涌き出ている一角がある。ここが志染の石室というところだ。岩がむき出しになっており、そこを水がしたたり落ちる。そのせいか地面もぬかるんでいる。

ここは三木市の中でも歴史的スポットとされているところである。話は5世紀というから、古事記や日本書紀に書かれた時代だが、当時天皇の位の継承権をめぐる激しい争いが繰り広げられ、雄略天皇派に父を殺された二人の皇子が一時この石室に身を隠していたという。後に、雄略天皇の死後に二人の皇子は権力を持ち、兄は23代の顕宗天皇、弟は24代の仁賢天皇と称されている。当時、播磨の中央に有力な豪族でもいたのだろうか。

こうした二人の天皇の伝説や、水の清らかな場所ということからか、信仰の場にもなっている。小さな祠に十一面観音を祀り、この辺りの三十三所霊場の一つとされている。祠の横には七観音の石像もある。

また、この水は窟屋の金水と呼ばれている。中に生息するひかり藻の繁殖の時期に、水が金色に変わるのだという。今見てもただの濁った水だが、ネットの写真では確かにそうした光景を見ることができる。それだけ水質、地質がいいということか。

しばらく歩くと志染川に出る。その上流に眼鏡橋が見える。これが御坂サイフォンである。河原に下りる道があるので近くまで行ってみる。

この御坂サイフォンは、明治時代にイギリスの技術者・パーマーの手によるもので、淡河川の疎水工事の一環である。水田耕作の水を安定して供給するために行われた疎水工事、山から山へ水を流すにあたり、その間の谷を通すのに使われたサイフォン技術。志染川を渡るために橋が掛けられ、水路が設けられた。この淡河疎水は、琵琶湖疎水、安積疎水と並んで日本三大疎水とされているが、琵琶湖と安積が国の政策だったのに対し、淡河川は地元の人たちが金を出して造ったという。播磨の国は土地も広く、米作りにも適した地域のイメージがあるが、実は水の確保には苦労した歴史があるとのこと。一帯には池も多いが、それらも元々は水源確保のための溜池である。

眼鏡橋のたもとに出る。こちら下流側から見えるのはコンクリート橋で、後から造られたもの。もともとの石造の橋はその奥にある。水量があるので反対側に回ることができず、オリジナルを見ることはできなかったが、ここにも石にまつわるスポットを見つけた。

河原から上がり、眼鏡橋の上に出る。今は軽自動車なら通れる幅の橋だが、上流側は鎖で仕切られて入れない。この入れないところが元々の橋に当たる部分である。後になって、クルマが通れるように橋を新たに造ったようだ。そして水路は今でも活用されており、斜面にパイプが走っているのが見える。

御坂サイフォンのすぐ横にある御坂神社で手を合わせた後、県道沿いにテクテク歩く。御坂神社から伽耶院までは40分の歩きである。志染小学校の角を右折する。正面には山陽自動車道の高架がそびえる。

ふと表示で「千体地蔵」というのを見る。道から横に入ってすぐだが、これがまた独特の光景。地蔵堂があり、本尊とされる地蔵は奈良時代の名僧・行基の作とされている。そのまわりに、これでもかと地蔵が並ぶ。単体で置かれているものもあれば、岩をくり抜いてその中に地蔵をはめ込んでいるのもある。ただ長年の風雪で顔形が判別しにくかったり、中には土砂崩れでぶちまけられた一群もある。そんなのもある千体地蔵だが、長年地元の人たちの信仰が受け継がれ、守られている地蔵である。そんな集落の人たちに対する知事の表彰状が、地蔵の前の小屋に掛けられている。

この地蔵のすぐ前に、三木東インターがある。さすが関西のゴルフ銀座で、インター出口前の交差点にはあちこちのコースへの案内看板が並ぶ。よく考えると、私も一週間後は会社のゴルフコンペの幹事で播磨の国に来るのであった。呑気に、新西国めぐりをしている場合ではなかったりして・・・・?

インターを過ぎると伽耶院の看板も出て、緑が丘駅からのバスの停留所を過ぎる。ここから10分ほど歩いて、道の脇の山門が見えてきた。緑が丘駅から2時間あまりでようやく到着である・・・・。
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