さて、受付から勝尾寺の境内に入る。西国三十三所のSNSによれば、33の札所の多くでは行事の中止・延期、拝観・納経時間の短縮、納経所の閉鎖、中には拝観そのものの停止という対応がなされている中で、勝尾寺については「通常運転」のようである。訪ねた時はちょうど定刻の祈祷の時間のようで、この時も何がしかの祈祷があり、祈願文や観音経偈がスピーカーを通して境内に響いている。
改めて勝尾寺の歴史について触れると、開かれたのは奈良時代の後期、光仁天皇の皇子(桓武天皇の異母兄)の開成(かいじょう)皇子が大般若経600巻を書写して奉納し、弥勒寺として建てたのが始まりである。その後、妙観が十一面千手観音を奉納し、寺の本尊とした。
平安時代以降は山岳修行の場として信仰を集め、清和天皇の病気平癒を祈祷してそれが叶ったことから、「勝王寺」の名前を与えられた。さすがに「王に勝つ」は恐れ多いとして、読みは「かつおうじ」のままで「勝尾寺」と称した。もっとも、今の山門の裏側の扁額には「勝王寺」と書かれている。
そして勝尾寺といえば境内のいたるところに置かれる「だるまみくじ」のミニだるまである。勝尾寺という寺の名前や、「七転び八起き」、「勝ちだるま」というところからいつの頃からか置かれるようになり、「勝ち運」の寺としても人気。このところはこのミニだるまの景色を目当てにしたインバウンドの客も多いところである。
本堂に上がる途中には「勝ちだるま」の奉納所がある。願いが叶った、目標を達成することができた時、そのお礼として奉納されている。
勝尾寺とだるまの関係がいつ頃からなのか確かな記事は見当たらないのだが、だるまで有名な群馬の高崎市のホームページには「高崎だるま(R)の歴史」という記事があった(だるまに「R(登録商標)」がついているのも驚きだが)。それによると、だるまが世間に広まったのは江戸で疱瘡(天然痘)が流行したことに由来するという。当時は現代のような医療が発達しておらず、庶民は病を恐れ、願掛けを行った。その時、「赤いものが邪気を払う」として、赤く塗っただるまを疱瘡除けとして求められ、子どもの枕元にも置いたという。
天然痘は後に種痘が開発されたことから現在では根絶されたとされているが、現在の新型コロナウイルスも、当時とは単純に比べられないにしても、状況としては似たようなものではないだろうか。コロナにも「打ち勝て!」と言いたくなる(こういうと、ウイルスに「勝つ」のではなく「共存」すべきだと主張する方々もいるそうだが)。
何だか勝尾寺に来た理屈をこね回しているようにも感じるが、厄ばらい三宝荒神社、鎮守堂、開山堂、大師堂と順に手を合わせる。なお、こちらの手水には柄杓が通常通り置かれていた。
そして本堂にてお勤め。お堂の中には祈祷を申し込むか、毎月の開帳日に訪ねるかでないと入れないので、外での読経である。こういう状況なのでマスクを着けながら経典を読むが、やはり息が長くは続かない。
私もだるまみくじを一つ引いて、境内にお供えする。だるまみくじも場所によっては「密集」しているところもあり、こういうのを見ると「『3つの密』を避けましょう」てなことを言って、だるま同士の間隔を開けようとする人がいるのではないかと思う(すでにいてたりして)。
4月末、鯉のぼりの季節だがその鯉にも元気が見られないように思う。
納経所に向かう。過去に訪ねた時は建物の外まで長い列で、係の人が複数で対応しても時間がかかったが、今回はこの状況で誰もいない。カウンターには透明シートが貼られ、床には並ぶ間隔を示すテープも貼られている。勝尾寺では確か納経帳に朱印を押したり、筆を走らせる際に係の人が「南無大慈大悲観世音菩薩」と小声で口にしていたと思うが、この時はなかった。こういう状況なので控えているのか、マスクをされていたので聞こえなかったのかはわからない。
納経所で並ぶことがなかったぶん、バスに乗るまでの1時間はちょうどよい滞在時間になった。12時31分発の千里中央駅経由北千里駅行きも、勝尾寺から5~6人の客で山道を下って行く。
千里中央には13時すぎに到着。昼食の時間帯で、通常の札所めぐりであればここら辺りで一人打ち上げでもするところだが、駅ビル内でも開いている食堂もあるものの、人との接触を減らすわけではないがそのまま列車に乗り込む。結局そのまま自宅まで戻ってからの食事となった・・・。
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