まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第49番「浄空寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(大和ミュージアムから熊野へ、そしてリーグ優勝)

2022年10月28日 | 広島新四国八十八ヶ所

(このところ、書き出しはこればかりだが)日本シリーズは第5戦を終えて2勝2敗1分とまったく五分の展開となった。正直、第3戦まで終えたところで私の中ではあきらめムードがあったのだが、第4戦のリリーフ陣の踏ん張り、第5戦の吉田正のサヨナラ本塁打など、テレビ桟敷でも見ていて緊張する中、しびれる展開となった。

これで舞台は再び神宮で行われ、どちらかが連勝すれば第7戦で決着、そうでなければ第8戦以降にもつれ込む。もし第6戦か第7戦で引き分けでも挟もうものなら史上初の第9戦ということもあり得る・・。

29日~30日には神宮球場に参戦します!!・・・と言えればいいのだが、ちょうど広島からさらに東京とは逆の方向に向かうため、遠方から応援を送ることにしよう・・。

話は本題の広島新四国へ。

10月2日、広島新四国は呉市内の2ヶ所を回り終えて熊野町方面に向かうが、その前にせっかく呉に来たのだから大和ミュージアムに立ち寄ろう。大和ミュージアムは私が前回の広島勤務を離れた後の2005年に開館し、今では呉を代表する観光スポットの一つである。開館してからは広島への「旅行」の行き先の一つとして何回か訪ねたが、2回目の広島勤務となってからは初めてである。

この日は企画展として「海軍を描いた作家」というのが行われていた(2023年3月末まで開催)。「大和」、「長門」、「陸奥」という海軍を代表する戦艦をテーマとした3人の作家についての紹介である。実際に大和に乗船し、鹿児島沖での沈没までを綴った「戦艦大和ノ最期」を著した吉田満、広島出身で海軍にも従軍し、「軍艦長門の生涯」を著した阿川弘之、そして海軍経験はないが、「記録小説」のジャンルを確立し、「戦艦武蔵」、「陸奥爆沈」などを著した吉村昭の3人である。

それぞれの生い立ちや実際に使用していた道具、原稿などがケースにて紹介されている。また、阿川弘之の書斎を再現したコーナーもある。書棚には阿川弘之の著書もずらりと並ぶが、その中に鉄道旅行に関するものも含まれているのが懐かしい。内田百閒と宮脇俊三の間というのかな。

この中で、「関東大震災」や「三陸海岸大津波」などの作品で接していた吉村昭の代表的な作品を読んでいなかったなと、後日「戦艦武蔵」、「陸奥爆沈」を買い求めて読んだ次第である。

そして通常展示で出迎えるのは、大和の10分の1スケールの模型である。この精巧な造りは、来る人に大和への想像をたくましくさせてくれる。

展示室は呉の町の歴史に関することと、戦艦大和に関することの2つに分かれる。呉の歴史のコーナーでは、明治に呉に鎮守府、海軍工廠が設置された頃から、軍事産業を中心に港町として栄えた様子が紹介されている。

その中で、1934年夏の甲子園決勝、呉港中学の藤村富美男が川上哲治のいる熊本工業相手に完封勝ちで優勝したシーンのジオラマもある。前の記事で、呉ゆかりの野球人ということで何名かの名前を挙げたのだが、その中でも「呉のスター選手」の印象が最も強いのが「ミスタータイガース」といえる。なおこの大会には沢村栄治のいる京都商業も出場していた。

そして時代は太平洋戦争へ。呉からも多くの艦艇が出撃した。映像コーナーでは太平洋戦争の様子をまとめた映像が流れるが、当初は快進撃を続けていた日本軍もやがてアメリカ軍の反攻により戦局が悪化する。そして大和も沈没、呉の町も大きな空襲に遭い、最後は広島への原爆投下・・。映像コーナーには来る人のほとんどが一度ここで足を停めて映像を食い入るように眺めていた。コーナーの最後には、呉から見えたという原爆のキノコ雲の写真もあった。呉は直接被爆していないとはいうものの、ここでもあの雲が見られたのかと思うと、改めてその威力を感じた次第である。

また、大和のコーナーでは、大和の建造やその性能に関することの他に、大和と運命を共にした人たちについても紹介されている。紹介ボードには乗組員一同の名前がずらりと記され、また遺品も多く並び、大和に乗務していた人たちの無念も伝わって来る。

一方で、鹿児島沖に沈没した大和からの引き揚げ品も展示されている。船体そのものを引き揚げるのは現在も技術や費用の面で困難なそうで、このまま海中に眠る歴史遺産という扱いになるのかな。

他には大型資料展示室として、ゼロ戦や人間魚雷「回天」なども飾られている。この「回天」の訓練が行われていたのが周南市の大津島である。この大津島もそうだし、爆沈した戦艦陸奥に関するスポットがある柱島や周防大島といったところもそうだが、山口県内にも太平洋戦争に関するスポットが点在しており、こうしたところはまだ訪ねたことがないので、ぜひ一度行かなければと思ったことである。

一通り見学し、呉名物の海軍カレー(海自カレー)のレトルトも土産物とする。

出発前に、フェリーターミナルに向かう。ちょうど松山との間のスーパージェットや通常のフェリーも出入りするタイミングで、しばらくその景色を眺める。自衛隊の敷地にも近い。ここから先日訪ねた広島新四国の第46番・萬願寺の五重塔が見えるかなと思ったが、さすがにはっきりとはわからなかった、

ここから、広島新四国の第49番・浄空寺を目指す。午前中にたどった二河川の対岸を走り、熊野町方面に進む。この時点では、次の浄空寺は熊野町にあるのかと思っていたが、後で気づいたところではまだ呉市内だった。浄空寺から数百メートル離れたところは熊野町で、法然寺という広島新四国の札所があるが、第60番。札所番号順に回るとなると、改めて熊野町に来ることになる。

一応、呉からのバスが走る県道沿いである。セブンイレブンの脇から細道に入り、浄空寺の境内に到着する。石垣を備えているが、建物自体は最近のもののように見える。

浄空寺は戦後の1949年、山本浄空という僧が、三滝の善光寺(広島新四国第13番)の開祖の導きで、江田島にて阿弥陀如来を祀ったのが始まりという。その後信者も集めたが、1967年に火災に遭い、2年後に現在の地にて再興された。現在の本堂は1989年、平成元年の建立という。

本堂の扉は閉まっていて、とりあえずその前でお勤めとする。そして朱印を・・ということだが、箱がないので庫裡のインターフォンを鳴らす。すると住職らしき方が出て、本堂の扉を開けるのでそちらに回るよう案内される。

本堂の外扉が開けられ、中に入る。こうなるともう一度お勤めである。その間、住職に後ろから見守っていただく。ローカル札所の対応も極端なもので、全くの無人で書き置きの朱印も覚束ない札所がある一方、わざわざ本堂に上げていただいてお勤めの様子を見守ってくれる札所にも出会う。だからいいというわけでもなく、やはりプロの僧侶が後ろにいるとどうしても緊張してしまう。

お勤めを終えると、朱印の他にお接待ということでお下がりのお菓子をいただき、寺を後にする。

クルマはこのまま広島市に戻り、海田大橋から広島高速をたどって西区に戻る。ここまで第49番、ちょうど、四十九薬師と同じ番号まで来た。次の50番は広島市内に戻ってのお参りである。

・・・さてこの10月2日は、繰り返しになるがパ・リーグの優勝が決まる最終戦が行われた日。夕方からは仙台でのバファローズ対イーグルス、千葉でのマリーンズ対ホークスをBS中継で追いかけた。

そして最後にこの歓喜の瞬間を迎えた。午前からの札所めぐりのおかげというわけではないが、よき1日になったことだった・・・。

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