まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第37番「並滝寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(江戸時代からの茅葺き屋根残る境内)

2022年04月26日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国めぐりは広島市を離れ、東広島市に入る。霊場会では「賀茂コース」と呼ばれているところで、しばらくは東広島市内を回る。その後は呉市、熊野町と広島の東側をめぐる。広島郊外のお出かけが続くことになる。

そういえば、前回の広島勤務時、賀茂地域は素通りばかりで訪ねたことがほとんどなかったと思う。もう20年前のことだが、20歳代と今とではお出かけや旅の目的、対象も変わっている。まあ、今のように札所めぐりを通して広島市内、近郊をいろいろ見ることにはつながっている。

まず向かうのは第37番の並滝寺。山陽線の八本松が最寄りだが、駅からは離れている。クルマで行くことも考えたが、霊場会のホームページによると芸陽バスの兼持から徒歩30分とある。バス停は国道2号線から白木に抜ける県道にあるようだ。

その芸陽バスの時刻表を調べると、八本松駅から志和地区を循環する系統がある。東回り・西回りとあり、それぞれ交互に運行されているが、いずれにしても本数が少ない。その中で、兼持バス停から並滝寺まで徒歩で往復することを考えると、八本松駅8時05分発の東回りに乗り、兼持8時16分着。そして兼持10時21分発の同じ東回りで志和地区を回って八本松駅に戻るのがよさそうだ。八本松駅に戻るなら西回りが近いのだが、11時過ぎまで便がない。

4月23日、山陽線の白市行きに乗る。前回訪ねた安芸中野を過ぎ、瀬野から上り勾配の通称「セノハチ越え」に差し掛かる。10キロの間に約200メートル上るということで、今の電車なら問題ないが、長大な貨物列車は広島貨物ターミナルから西条駅まで列車の最後尾に機関車をつけて後ろから押して上る。今では全国唯一といっていいだろう。先日は、国鉄時代から活躍していた種類の機関車が引退したことで地元ではニュースになっていた。

東広島市に入り、八本松に到着。改札横に「みどりの窓口」の古い書体らしきロゴマークが見える。

駅前のロータリーに停車中のバスに乗る。東広島バイパスへ続く溝迫交差点を過ぎ、県道に出て山陽線の線路を跨ぐ。さらに山陽自動車道の下をくぐり、兼持に到着。

周囲は田畑の中に石州瓦の赤い屋根が目立つ。東広島に来て、景色も新しいものになったように思う。交差点には並滝寺へ3キロとの看板も出ている。

朝自宅を出た時ははまだ1枚羽織るものがあったほうがよかったが、ここに来て気温も上がり、体を動かすと汗ばんでくる。緩やかな坂を上っていく。昔は棚田も広がっていたのだろうが、太陽光パネルも多く建てられ、またその向こうには物流センターの拠点が並ぶ。そちらのエリアにはトラックが行き交っている。志和インターに近いこともあるのだろう。

その一帯を抜け、並滝寺まで1.5キロという手書きの看板が見えた辺りから勾配が少し急になる。この辺りも豪雨に見舞われたのか、流木や石が積み上げられている光景もあれば、これは流されたものか不法投棄か、電化製品や家具類が積み上げられたところもある。

そのまま進むと並滝寺池というのに出会う。江戸時代中期に農業用水として築かれた人工の湖で、第二次大戦中に再度築造されたとある。今は晴天が続いているためか、池の水も少なく干上がっているように見える。ここまで来て並滝寺の幟が目につき、ようやく寺に近づいた。バス停からここまで40分ほどかかった。

旅館らしき建物の前を過ぎ、地蔵像に出迎えられてもう少し山道を行く。そして山門の下に出る。かつてはこの石段の下に参道が続いていたのだろうか。子供坂、男坂と続く石段を上るが、中央には四国八十八ヶ所の札所番号が書かれたパネルがある。ということは、石段の数は88段なのかな。

並滝寺は奈良時代、聖武天皇の勅願で行基により開かれたとされる。昔は七堂伽藍や多くの末寺を有していたそうだが、福島正則の時代に衰退した。この広島新四国をめぐる中で、「福島正則の時代に衰退」、「福島正則により寺領が没収」という説明文にいくつか出会っている。かつての毛利氏の勢力下にあった地域で、昔からの権威を否定しようといろいろやっていたのかな。ただ福島氏の治世も長くなく、大坂の陣の後には自ら改易となってしまう。

一方、福島氏の後に安芸の浅野氏、備後の水野氏の代になると寺が再興されたり新たに保護を受けたりという歴史を持つ寺も多く、並滝寺も浅野氏の時代に再興された。その後、江戸後期の寛政年間に大風の被害で寺の建物も吹き倒されたが、これを機に境内の建物も再建され、現在まで受け継がれている。

男坂を上ったところの庫裏も江戸時代後期の建物で、ここには木造の延命地蔵が祀られている。朱印はここに置かれた箱の中に入っている。

最後に女坂を上り、茅葺き、龍宮造りの楼門をくぐる。すると正面には茅葺きの建物が出迎えてくれる。これが本堂だ。江戸時代、この一帯の寺院のほとんどが茅葺き屋根だったそうだが、その様子を今に残す貴重な建物とされている。その時は東広島にはまだ石州瓦が伝わっていなかったのかな。

本堂の前にてお勤めとする。次のバスまでは少し時間があるし、他に参詣の姿も見えないので、縁側でしばしのんびりする。いい感じの風も吹いている。

茅葺き屋根の建物はもう一つ、本堂横の金毘羅社である。それにしても、これらの茅はいつからのものだろうか。さすがに江戸時代そのままとは思えず、だとしたら何度か葺き替えも行われたことだろう。ただ、楼門の壁も下のほうがはがれており、なかなか維持するのも大変だと見受けられる。観光寺院ではないので入山料を取るわけでもなく、境内維持のための寄付のお願いが本堂や庫裏に掲示されている。

境内にたたずんでいると下のほうからご婦人方の声が聞こえて来た。ハイキングにでも来たのだろうか。江戸時代からつながる歴史を感じたところで、これを機にそろそろバスの時間もきになるので引き返す。今度は下りのため快調な歩きとなり、時間に余裕を持って兼持バス停に着く。ベンチがあったので腰かけてバスを待つ間、物流センターを行き来するトラックが結構多いのに気づく。

先ほどの続きの東回り便に乗る。志和地区をぐるりと回るので、八本松駅までは先ほどの倍以上の40分近くかかる。そのぶん、石州瓦の家屋が並ぶ田園地帯の風景を眺めることとする。

バスは八本松駅に到着。当初はここで下車して、次の第38番の国分寺に向かうべく山陽線に乗り換えて西条に向かうことにしていたが、ここまで乗って来たバスがそのまま西条駅まで行くということでそのまま乗り続ける。ただ、西条の市街地に入ると渋滞でなかなか進まず、予定通り列車に乗り換えればよかったかなとなったが・・まあ、別に先を急ぐわけではない。

西条駅に到着。駅前には酒の看板も出るが、まずは線路の北側にある国分寺に向かう・・・。

コメント