まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第8回四国八十八所めぐり~長宗我部元親ゆかりの地

2017年03月22日 | 四国八十八ヶ所
第29番の国分寺を参詣して次の善楽寺に向かう。歩き遍路、そして「四国のみち」が指す道は田んぼのあぜ道。両側には早くも水が張られたものもあり、夏や秋に来れば稲穂の匂いがするのかなと想像する。歩く中で12時のサイレンが鳴り響く。南国市の防災無線のテストも兼ねているようだ。

これから途中目指すのは前方の小高い丘。遍路道、「四国のみち」もそちらを指している。この丘の上にかつて存在していたのが、長宗我部元親の居城であった岡豊(おこう)城である。この名前を初めて目にしたのは「信長の野望」のゲーム。高知城は江戸時代の山内氏によるものであり、「戦国」となると岡豊である。現在は遺構が残るとともに、中腹には高知県立歴史民俗資料館があるので、計画時点でこちらに立ち寄ることにしていた。私が阿波の札所で目にした「長宗我部氏の兵火に遭った」というその張本人の本拠地を巡るのも面白そうだ。

国道32号線の下をくぐり、再び国分川の土手を歩いて城の南側に出る。目指す歴史民俗資料館は地図で見る限りでは城の北側、県道から入るが、歩きの道しるべは城の南側である。途中に「岡豊城登り口」と書かれた立て札があり、石段があったので上ったが、すぐに草に覆われて先に進めない。元は登山道だったのだろうが、整備されていないのかな。ここからの登城はあきらめてもう少し西に進むが、案内も何もない。スマホの地図を見るとかえって資料館から遠ざかっており、これはまずい。歩き遍路道ならこのまま進むのが正しいルートだが、今の私はそうもいかない。ここは少し時間のロスだが、来た道を戻り、城の東側から北側に出る道を行く。小学校の横から集落を抜けると、資料館に続く坂道に出た。途中、屋外展示の古民家を見ながら坂を上って資料館に到着した。

入口の前には、槍を突き上げる長宗我部元親の像が立つ。岡豊城跡なのだから当然だろう。最近の戦国ものは武将たちをやたらとイケメンに、アニメのキャラ的に描くのが多く(まあ、それが特に女性の歴史ファンを増やした面はあるが)、この像もどちらかといえばそちらのイメージで造られているように見える。「土佐は龍馬だけと違うぞ!」と言っているようにも見えるが・・・。

入口は2階部分で、2階が長宗我部家に関する展示である。中央に記念撮影場所として設けられた本陣以外は撮影禁止なので画像はないが、長宗我部氏の歴史、元親の四国平定、関ヶ原の戦いを境とした滅亡が、当時の史料展示で紹介されている。土佐は七雄とされる国人たちの領地争いが続いていたが、それを制した元親の業績は大きく取り上げている。

3階は土佐、高知県の歴史民俗の紹介で、四国八十八所の成立や、現在の高知龍馬空港の辺りに栄えていた中世の集落、山内容堂、坂本龍馬の遺品や書簡、さらには土佐の海と山の産業、土地の風習などが紹介されている。今回は巡拝の途中で駆け足の見学でしかなかったが、みどころはいろいろあるところである。

資料館を出て、城跡に向かう。東側からは先ほど訪ねた国分寺を含めてかつての土佐の国の中心地を見下ろすことができる。ここに城が建てられたのは鎌倉時代とされているが、戦略上の利点があったとしても、国府を見下ろす地に地に築城とは、武士の時代の現れだなと思う。その本丸にあたる「詰」には、かつての櫓の復元工事が行われている。ちょうど城の南側を見下ろす位置であり、国分川も堀の役割を果たしたかもしれない。これも平野部に向けてにらみを利かせるためだろうか。

戦国時代の土佐の空気を少し感じたところで、再び善楽寺に向かうことにする。資料館から県道に出る。この時点で歩き遍路道からは外れているが、善楽寺にはこのまま県道を歩くとたどり着く。こちらも県道のバス停があるが、残りは4キロということで再び歩き始める・・・・。
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