吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2007年1月12日〈津屋崎学〉020:津屋崎の正月

2007-01-12 06:05:39 | 郷土史
●写真①:正月の玄関に掲げる注連飾り
      =福津市津屋崎で、06年12月31日午後2時39分撮影

琢二と清の郷土史談義
津屋崎学

第20回:2007.1.12
  津屋崎の正月


清 「新年明けましておめでとうございます。おいしゃん(叔父さん)、今年もよろしくお願いします」
琢二 「おめでとう。ま、お屠蘇を飲まんか。きょうは、津屋崎の正月の話をするかな」
清 「松飾りとか、注連飾り=写真①=など正月の飾りもんの謂われから、教えちゃらんね」
琢二 「松飾りは、一夜飾りを忌んで、遅くとも暮れの29日ごろまでに立てるのが習わしだ。松は神の依代(よりしろ)、つまり神霊のよりつくもので、正月に家に迎え祭る神・〈歳神(としがみ)〉様を迎えるためのもの。門に=写真②=を立てるのも、正月の神様・歳の神が降りてくる依代たい。歳の神とは、米作りの神様で、正月に家に来て今年の稲作の豊作を保証してくださる神様であり、幸福を授けてくれる祖先の霊だとか考えられてきたとばい。正月を迎えるために神棚や建物の入り口に張る注連縄は、その中が清浄な場である〈しるし〉だから、注連飾りは玄関に掲げる。

 年末に家の煤払い、大掃除をするのは、家の中の穢れを清め去って、歳の神を迎えるのにふさわしい祭場にする風習たい。単なる屋内の大掃除ではなく、年に一度の神聖な行事やったとばってん、今は煤払いをしない家も多うなってしもうたばい。親子や親戚の間で贈答する〝お年玉〟も、民俗学では新たに来る年の霊魂を授受する呪術的信仰の儀礼化だと言われとる」


写真②:玄関に立てられたミニ門松
     =福津市津屋崎で、06年12月31日午後2時41分撮影


清 「やっぱ、お雑煮は古里・津屋崎の雑煮=写真③=が一番旨かね」
琢二 「雑煮の出汁(だし)が昆布と焼きアゴ(飛び魚)で取ってあり、福岡県特産野菜の青菜・鰹菜(カツオナ)で餅をくるんで頬ばれば、喉に詰まらんで美味しく食べられるから、雑煮のおかわりが欲しくなるたい。津屋崎の雑煮の具には、出世魚でめでたい(ブリ)の切り身を入れる。博多雑煮とだいたい似ているが、博多雑煮では鰤を入れる家と、鰤ではなく鯛(タイ)やアラを入れる家がある」
清 「そらまた、なして?」
琢二 「青魚の鰤を入れると、出汁の味が濁ると言って、鰤を嫌う家は白身魚の鯛かアラを入れる。ばってん、雑煮には大ブリな年をとるということで、正月の魚とされる鰤を入れるとこだわる家もあると。そう言えば、昔は年末の贈答で、嫁を迎えた家は〝嫁振りがよい〟という意味で嫁の実家に鰤を贈ったもんたい」


写真③:鰤の切り身や福岡県特産の鰹菜が入った「津屋崎の雑煮」
     =福津市津屋崎で、2007年1月4日午後0時03分撮影

清 「鰤の雑煮があんまり旨かったもんやき、餅を6個も食べたばい」
琢二 「そうか。餅を美味しく食べてこそ、日本人たい。昔は一軒で一俵の餅を搗(つ)いとった。今では、家で餅を搗くところはほとんどなくなったな。精霊の宿る稲穂が凝縮された餅には霊力があると信じられとるけん、餅を食べることは神の霊力を体内に取り込むことを意味しとるとたい。津屋崎の餅は、円満を象徴する丸餅だな。餅は焼かずに昆布の上に置いて煮て、鍋の底に餅が付かんようにする。煮えた餅は、雑煮の椀の底に入れたダイコンの上に置く。雑煮の具には、鰤の切り身と鰹菜のほか、シイタケやダイコン、ニンジン、サトイモ、焼き豆腐、かまぼこ、スルメ、昆布を餅の上に並べて入れる。

 雑煮の膳には、二親(にしん)から多くの子が出るのを良き事として数の子や、〝まめ〟が丈夫を意味する黒豆=写真④=、〝喜ぶ〟の言葉にかけた昆布巻などの〈おせち料理〉を添える。昔は、縁起物の栗の箸で雑煮を食べたもんたい。丈夫な栗の木にあやかって、新しい一年を健康にすごせるようにと祈願し、栗の木の枝を削って作った箸で、栗栄(くりはい)箸とか、栗箸と呼ぶ。雑煮は室町時代に始まったとされ、もともとは歳神へのお供えや地域の産物をお下がりとして、神と共にいただく儀礼的な料理だったといわれとる。昔から日本では祝い事や特別な日に食べる〈ハレ〉の日の食べ物である餅を食べる。正月は、旧年の収穫や無事に感謝し、新年の豊作や家内安全を祈りながらいただくとたい。正月の料理をおせちというのは、節(せち=節会)の食べ物として歳の神に供え、家内親族そろって節振る舞いにあずかるからや」


写真④:雑煮の膳に添える黒豆(左上)などの〈おせち料理〉
     =福津市津屋崎で、07年1月4日午後0時03分撮影


清 「昭和生まれのおいしゃんたちは、正月の前後は、どうやって過ごしとったとね。それと、鏡餅=写真⑤=を床の間や神棚に飾るのは、何の意味があると?」
琢二 「暮れの31日の夕食で、運そばを家中で食べ、雑煮の用意が終わったら、天神町に1軒あった銭湯に入って、一年の垢を落とし、波折宮や宮地嶽神社へ年越し参りする家族もあった。銭湯は元日は休みで、2日は普段の日にはない朝湯があり、おいしゃんも親子で入りに行ったもんばい。7日は、餅を入れた〈福入り雑炊〉を食べた。

 鏡餅は、歳神や祖霊に供える中高に作った餅で、お供えしてからいただく尊い餅。正月の主要な供物とされるから床の間や神棚にお飾りする。重ねた丸い餅を鏡餅と呼ぶ理由は、丸い餅の形が神様が宿るとされた昔の銅鏡に似ていることや、餅の丸い形は家庭円満を表し、重ねた姿は1年をめでたく重ねる意味もあるからなどというな。お飾りの形は、餅を二重ねにして供え、大きく実が育つのにあやかって代々家が大きく栄えるようにと願った縁起物のダイダイや、常緑樹で生命の永続性を象徴するユズリ葉、シダの葉の裏が清めにふさわしい白色のモロムキ(ウラジロの福岡弁)、〝寿留米〟につながるスルメ、〝喜ぶ〟を意味する昆布を飾る」

清 「昭和の子供は、正月は何して遊んだと?」
琢二 「男の子は、こま回しや陣取り、タコバタ(凧揚げ)、釘打ち、パッチン、ケンケンパーなど。女の子は、羽子板での羽根つきや、縄跳び、百人一首、ケンケンパーなんかだな」


写真⑤:床の間に飾られた鏡餅
     =福津市津屋崎で、06年12月31日午後2時43分撮影
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