十字架というさばき

 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。
 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(ヨハネ12:27-31)

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 「今がこの世のさばきです」。
 さばき自体は終わりの日に、キリストによって執り行われる。
 だが、ここで言う「この世のさばき」は、イエスへのさばきという形で執り行われた。
 もちろん、最高刑としての十字架のことだ。
(上の引用箇所は、イエスが「そのときが今や来た」と悟った箇所で、十字架よりも前のことである。)

 神の子イエスは、人間の肉をまとってやってこられた。
 そのイエスがさばかれるのは、「この世を支配する者」が「追い出される」ためだ、当のイエスはそう仰る。
 すなわち、イエス自身の人間の肉を十字架にはりつけるというさばきによって、人々をその肉から開放なさる。
 「この世を支配する者」とは、実に人間の肉のことなのだと思う。

 イエスはこのさばき、すなわち十字架ののち、復活する。
 それはイエスを信じる者が同様にさばかれて復活する、その道を切り開くためだ。
(「身代わりのさばき」ではなく、ヨブ同様実際にさばかれるだろう。)
 その復活とは、人間の肉のままで赦される、ということである。
 赦された人間の肉は、「この世を支配する者」から自由だ。

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