盲目のピリポ

 「ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:8-9)

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 ピリポは尋ねる。
 「主よ。私たちに父を見せてください。」
 イエスは応える。
 「あなたはわたしを知らなかったのですか。」

 三年間つきっきりだった弟子たちは、実はイエスを知らなかった。
 イエスが見えてすらいなかった。
 というより、見えようがない。知りようがない。
 だがイエスはそのことで、弟子たちをまったく責めたりはなさらない。
 それは、あわれみというよりはむしろ、まあそうだろうという予想があったからだろう。

 さてイエスは復活して、弟子たちの前に現れる(ヨハネ20章)。
 復活のイエスの前に立ったとき、目をふさいでいた物がぽろりと取れて、イエス・キリストを、父を見ることができるようになる。
 そうすれば、ピリポがここで言ったのとは異なる意味で、本来的な満足が得られるに違いない。
 パウロがそうであったように、この時出会わせていてはっきりとイエスを見た弟子たちもそうであったはずだ。

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