十字架へ至る道

 「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」(ヨハネ13:21-22)

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 イエスが選んだ十二弟子のうちの一人が、イエスを裏切る。
 イエスは予め分かっていて、あえて彼を選んだはずだ(ヨハネ6:70)。
 裏切り役というのが必要だったからかも知れない。
 それでも、いざ裏切られる段になると、そのイエスのうろたえぶりは他の弟子たちが当惑するほどのものだった。

 裏切り。
 なんと嫌な言葉なのだろうか。
 だが残念ながら、きわめてありふれた言葉でもある。
 そのことは、多くの人が頷くに違いない。
 イエスも、弟子から裏切られるという段になって、うろたえる。

 イエスは十字架を前にして、人が味わう苦痛のおよそ全てを舐めているかのようだ。
 上の引用聖句より前には、師であるイエスが弟子達の足を洗うという、もっとも卑しい下僕しかやらないようなことをなさる(ヨハネ13:3-15)。
 裏切りに遭う辛さ、下僕のすることをする師。
 さらに、役人は平手で打ち(ヨハネ18:22)、「十字架につけろ」(ヨハネ19:15)と激しく叫びが飛び交う。

 十字架への道は、イエスにとってかくも厳しい。
 だが神の子
 イエスは、その全てを受け入れる。
 ここに、信じる者は慰めを見いだす。
 誰もが辛い事柄を、イエスは全て体験しておられるのだから。

 そして、その十字架への道は、やがて復活へと開花する。
 それは、私たちの多くもも同じだ。
 イエスほどには、全世界を背負わないで済む。
 なぜなら、それは復活の初穂であるイエス・キリストが、代わりに背負ってくださったからだ。

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