父の命令

 「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。
 彼はわたしに対して何もすることはできません。しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。
 立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(ヨハネ14:30-31)

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 十字架を目の前にしての、イエスはなお語り続ける。

 「父の命じられたとおりに行なっていること」とは、正にその十字架への道のりを全うすることを指す。
 肉をまとった神がその肉を最高刑で処罰する。
 そのことによって罪深い人間の肉を救う、これが十字架への道のりの意味である。
 このことは見方を変えれば、人間の肉の罪深さというのは救いがたく、最高刑をもって臨むほかない、神はそう判断されておられるということだ。
 それで、神は畏れ(恐れ)の対象である。
 それでも、その人間をお造りになった神は、ひとり子イエスを世に送られれた。これこそ神の愛なのではないだろうか。

 この世を支配する者が、イエスのもとにやってくる。十字架は、刻々と近づいている。
 しかし、「彼はわたしに対して何もすることはできません」。
 この十字架への道、父の命令を守ること(守る自由、と踏み込んでもいいかもしれない)、これは、世の支配者には邪魔をされない。
 彼はイエスを殴る。平手打ちする。
 唾を吐く。
 鞭打つ。
 からかう。
 受難と呼ばれるまでにやりたい放題やられても、そのことによって十字架の道からイエスが外れることはなく、復活まで全うした。
 そしてそのことを、世にいる幾人かは分かって、そして信じる。

 逆に、受難と言われるほどのことがあっても命令を全うなされた姿は、私たちが世で日々を送る上でのお手本でもある。

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[訂正]
 おととい4月27日の記事中「その人はこの世を全うしてゆく。」と書きましたが、「その人はこの世「で」全うしてゆく。」の誤りでした。訂正します。
 誤字脱字の甚だ多いブログですが、これは致命的な間違いでした。

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