『よみがえり』と『生き返り』

 「しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
……
 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:37-40,43-44)

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 イエスがラザロを生き返らせた記事。
 ところで、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(1コリント15:20)とある。
 「眠った者の初穂」、つまり死者の中から最初によみがえったのは、ラザロの方ではないだろうか。

 イエスの復活とラザロとでは、何がどう違うのだろうか。
 ラザロは、肉が死んで、また肉として生き返った。
 一方、肉をまとったイエスは、その肉を最高刑に処して十字架に死ぬ。
 処したその肉は、二千年前のあの十字架にはりつけられたままだ。
 だから、上のラザロの場合とは異なり、復活のイエスにはアダムの肉がそぎ落とされている。
 これが「よみがえり」、また「いのち」である。
(「わたしは、よみがえりです。いのちです」ヨハネ11:25)
 よみがえりと生き返りとはこの場合、アダムの肉の有無で区別される。

 アダムの肉、それはアダム以来の人間の罪性のことだ。
 イエスが十字架に死んで復活されたことにより、アダムの肉を持ったままで、信仰により罪赦されるという新しい道が開かれた。
 ラザロの生き返りは、よかったよかった、というだけの話なのだが、イエスの復活はキリストによる救いの確証という点でも、両者は全く異なる。

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