あなたがたは、悪い者

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:7-11)

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 山上の説教より。

 上の聖書箇所の中に、「あなたがたは、悪い者ではあっても」という言い回しがある。
 この箇所を読むたびに、かつての私は「主よ、そんなに悪者呼ばわりしないでください。」と思ったものだった。
 だが今は、そういう思いは全くない。

 というのは、端的に「あなたがたは、悪い者」だからだ。
 全くもって、「あなたがたは、悪い者」なのである。
 律法、預言者、さらにそれらについてのイエスのこの山上の説教での解釈、これらが教える全き善のレベルへは、素晴らしい行いをどれだけ行っても決して到達することが叶わない。
 何故か。
 アダム以来の罪深い肉が、どこまでも反対側へと足を引っ張るからである。
 足を引っ張られ続けて、人は救い主(キリスト)を待ちこがれるようになった

 それでイエスは、「求めなさい」と仰る。
 求める者には父が与えてくださる「良いもの」、それを「求めなさい」。
 そして、「そうすれば与えられます」。
 この悪者が求めて与えられるもの、それは善化ではない。
 悪いまま、罪深い肉のままで神から赦されること、それが「良いもの」である。
 もう行いによって神に認められようとしなくとも済むようになる。
 このことを一言にしてしまうと、十字架と復活ということになる。
 だから、「良いもの」として何を求めるのかというと、十字架と復活、なによりそれを信じる信仰でなくてなんだというのであろうか。

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