父がおられる

 「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。
 しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:30-33)

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 十字架を前に、イエスは弟子たちに語り続ける。

 「わたしをひとり残す時が来ます。」
 いや、既に来ているという。
 イエスは弟子たちを友と呼んだが、そもそもは師弟の間柄であるから、弟子たちがいてもイエスには師としての孤独があっただろう。
 神が「孤独」?
 そう、イエスは、神が人間の肉をまとって来られた存在であるから、人々が皆恐れ嫌がっている孤独感を、肉あるイエスは味わい続けていたのではないだろうか。
 なにしろ周囲は、敵意と無理解の渦だったのだ。
 そして今や、弟子たちすら恐怖で逃げ去ろうとしている。
 イエスは、そのことを指して、「わたしをひとり残す時が来ます」と仰っている。
 これ以上ない孤独の身となる。
 そして待ち受けているのは、十字架への道。いわゆる受難。
 イエスは何を感じているのだろう。
 しかしイエスは言う。
 「しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」
 孤独と受難という状況下、父が共におられると信じること、これこそ信仰であり、それは「いのち」の実だ。
 この実をして、イエスに「わたしはすでに世に勝ったのです」と言わしめる。

 信じる人には、イエスが歩んだように「患難」がある。
 しかし、信じるが故に、その人はイエスのように世を超克する。
 イエスもその人に、勇敢たれと励ます。

 一方、弟子たちは、「私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」とか言っておきながら、散り散りに逃げ去ってしまう。
 信じてなどいないのだ。
 彼らは、復活のイエスに会うことによって初めて信じた。
 ちなみに、信じる人はどの人も、その出会いによって信じる。

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