一粒

 「すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
 しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:23-25)

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 神がお植えになった麦の穂先に実った一粒一粒。
 イエスという「やってきた一粒」が、地に落ちる。
 そして、地で死ぬ。
 すると「よみがえり」という、驚くばかりに豊かな実を結んだ。

 イエスは仰る。
 「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」。
 「この世でそのいのちを憎む」と言うときのいのちという言葉は、「永遠のいのち」とは全く異なる。
 これは、言ってみれば「肉のいのち」とでもいうもの。
 どれだけ洗ってもぬぐえない泥と血にまみれた、そんな肉だ。
 こんな肉は、心底憎たらしい。
 この罪の肉にそんな憎しみが出てこそ、かえって「永遠のいのち」に至る。
 イエスという一粒の「よみがえり」がもたらした罪の赦し、あがないにより、もう泥と血にまみれた肉を洗う必要はない。
 この豊かな実は、いったいどれだけの人々を救ってきただろうか。
 この人たちもイエスと同様に(というかイエスが切り開いたルートによって)、地に落ちて死に、豊かな実を結んだ人々のはずだ。

 一方、「そもそも落ちない一粒」というのがある。
 これは「自分のいのちを愛する者」に当たる。
 もうひとつ、地には確かに落ちるのだが、地の上にとどまって死なない(死ねない)一粒というのもある。

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