みなされる

 「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(ヨハネ17:6-8)

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 イエスの祈り。

 イエスは父に申し上げる。
 「彼らはあなたのみことばを守りました。」
 いや、ちっとも守ってなんかいない。

 「あなたのみことば」とは、ここでは「あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていること」、すなわちイエスが神の御子だということを指す。
 あなたがた、すなわちここでは弟子たちは、以前、次のようなやりとりをイエスとしている。
 「これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。」(ヨハネ16:30-31)
 弟子たちが「あなたのみことば」を守っていないことが、ここで分かる。

 だがイエスは、「彼らはあなたのみことばを守りました。」と、弟子たちが「あなたのみことば」を守ったこととみなして下さっている。
 守っていないのに、守っているとみなされる。
 このことは、私たちが重罪人であるのに罪なき人とみなされることと同様である。

 弟子たちは復活のイエスに出会って、このイエスが神から来られたということをはっきり分かって、そして信じる。
 ところで弟子たちに限らず、神が世から取り出された人というのがたくさんいる。
 外見の比較や言動だのでは、見分けは付かない。
 なにしろ本人も、そのことを知らないのだ。
 しかし、イエスと出会ったときに、そのことを知る。
 落としようのない罪に汚れた身であるにもかかわらず、罪がないとみなされる、これを「救い」とも「いのち」とも呼ぶ。

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