『ひとりの人』が与える確信

 「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。
 そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:21-24)

---

 十字架を前に、イエスは弟子たちに語り続ける。

 今、イエスは去ろうとしているが、「もう一度あなたがたに会います」。
 それは産みの苦しみのようなもので、その苦しみを通して「ひとりの人が世に生まれ」る。
 この人には、アダムの罪深い肉は、ない。
 それは十字架に残しておいた。
 この「ひとりの人」は、肉を脱ぎ去った清き存在だ。

 この復活のイエスに出会った人は、喜びに満たされる。
 「そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者は」、ない。
 悲しい日も悔しい日も、確信が消えることはないので、その喜びも奪われない。
 その確信とは、「もはや、わたしに何も尋ね」なくなるほどのものだ。
 それほどの強く絶対的な確信を、新たに生まれた「ひとりの人」は与えてくださる。

 その確信とは、自身もよみがえって肉を脱ぎ去り新たに生まれ、「ひとりの人」と同じようになる、ということである(参/コロサイ2:11)。
 それで、喜びであふれかえっている(参/1ペテロ1:8-9)。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )