イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
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神との平和
「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)
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人は本来、神との関係性の中にのみ存在する。
だが、アダムの違反によって、関係は破綻してしまった。
神はそのアダムを、園から追い出してしまう。
この、神-人という関係性の中では、神が絶対的に上位にあり、自分は絶対的下位にある。
その絶対的上位にある神がお怒りであるならば、自分はがたがた脅えるしかない。
だが、神の子イエスが自身の身代わりに十字架に架かって下さった和解を信じることができるならば、神と自分との関係には平和があり、そこに怒りはない。
「信じる」とは、キリストとの出会いがもたらす、この「状態」である。
こうして、信じる者にとって、世界はこの神との絶対的二者関係に収束してしまう。
なぜなら、神は世界そのものだからだ。
もちろん自分は、神にひざまずく立場であり続ける。
それでいて、これ以上なく平和なのである。
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人は本来、神との関係性の中にのみ存在する。
だが、アダムの違反によって、関係は破綻してしまった。
神はそのアダムを、園から追い出してしまう。
この、神-人という関係性の中では、神が絶対的に上位にあり、自分は絶対的下位にある。
その絶対的上位にある神がお怒りであるならば、自分はがたがた脅えるしかない。
だが、神の子イエスが自身の身代わりに十字架に架かって下さった和解を信じることができるならば、神と自分との関係には平和があり、そこに怒りはない。
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