父の愛

 「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈り。

 「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。」
 父の御名とは、何であろう。
 この17章に3度出てくる「御名」の文脈からいって、それがヤハウェ(エホバ)という固有名詞であるとか、"YHWY" という子音だけで構成されるものである、ということでは全くないことは明らかだ。
(アルファベット表記の綴りに自信なし。)

 この世は父を知らないが、「彼ら」、すなわち、父が世から取り出した人々には、イエスは父の御名を知らせ続ける。
(「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、…」ヨハネ17:6)、また、さくじつの記事参照)。
 そうすることで、父の愛がその人々に注ぎ込まれ続け、また、イエスが御内住なさるためである。

 父の愛、すなわち「神は愛なり」と呼ばれるその愛は、世を救うため肉をまとった子を世に送り、その肉を十字架につけて処罰し、そしてイエスを肉のない姿で復活させたことにある。
 そしてまた、父が世から取り出した人々が復活のイエスに出会い、このイエスが父から出たこと、またそのイエスが何をなされたのか、更に何故そうなされたのかを、はっきりと知るようになる。父の愛ゆえのことだ。
 だから父の愛というのは、親兄弟の愛とは全く異なる。友情とも親愛とも家族愛とも、全く異なる。
 父の愛は、アダム以来の人間をあがない出そうとする愛なのである。
 そしてそれは、父の御名の栄光ゆえのことである。

 イエスの祈りは、終わる。

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