目薬

 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙3:17-20)

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 復活のイエスがパトモス島に幽閉されているヨハネに現れ、各教会へのメッセージを託す箇所(上の引用聖句は「ラオデキアの教会」に宛てた箇所)。

 復活のイエスは仰る。
 「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、……」。
 そのイエスは、「わたしの声」も、また戸を叩く音も、ラオデキアの人々が全く聞こえないことを責めておられる。
 世界中の個々人がはっきりと聞こえるはずなのだが、耳しいなのだ。

 それでイエスは仰る。
 「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
 この「盲目」が、上に書いた「耳しい」と同義。
 見えるはずのイエスが、見えない。
 聞こえるはずのイエスの御声が、聞こえない。
 それでイエスは、「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」と勧める。
 この目薬は、イエスから買うほかない(お代はたかだか、聖書代だ)。
 ただ神の恵みによって、この目薬は自然と目に塗られる。
 世の目薬では、かえって目がどんどん濁ってしまう。
 また自分の力でイエスの目薬を購入しようと試みることもまた、できない。
(そう思うことことが、既にして盲目なのである。)

 それでも、イエス・キリストは仰る。
 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」。
 耳しいだろうが盲目だろうが、いや、それだからこそ、イエスは「愛する者をしかったり、懲らしめたりする」。
 なぜなら、そのことによって、「愛する者」の耳が聞こえ、目が開くからである。

 耳が聞こえるようになったならば、外で声を掛け戸を叩き続けているイエスを屋内に招き入れて、この復活のイエスとディナーを囲むことができるようになる。

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