イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
はっきりと告げる時
「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」(ヨハネ16:25-28)
---
十字架を目前にして、イエスは弟子に語り続ける。
今まで話したことは、たとえであった。
しかし、たとえではなく「はっきりと告げる時が来」る、イエスはそう仰る。
何について告げるのかというと、「父について」である。
その時というのは、弟子たちに語りかけている今このときでは、ない。
その人その人、おのおの機が熟したときなのだろう。
言えることは、ただ神の恵みによってのみ、その時に至る。
自力では、どうにもならないことだ。
「父について」はっきりと分かると、「わたしを神から出て来た者と信じ」るに至る。
端的に、信仰に至る。
「いのち」に灯がともされる。
神がその人を愛してくださる。
だからその日には、「あなたがたはわたしの名によって求めるのです」。
信仰を持つ者がおのずと求めることを、求める。
イエスは父の御許から世に来られ、今まさに、その父の御許に行こうとしている。
父についてはっきり分かる時が来て、イエスが誰かが分かって信じる人は、そのイエスと同じような歩みになる。
きわめて俗っぽく言い換えると、その人は「天国」に行くのである。
---
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」(ヨハネ16:25-28)
---
十字架を目前にして、イエスは弟子に語り続ける。
今まで話したことは、たとえであった。
しかし、たとえではなく「はっきりと告げる時が来」る、イエスはそう仰る。
何について告げるのかというと、「父について」である。
その時というのは、弟子たちに語りかけている今このときでは、ない。
その人その人、おのおの機が熟したときなのだろう。
言えることは、ただ神の恵みによってのみ、その時に至る。
自力では、どうにもならないことだ。
「父について」はっきりと分かると、「わたしを神から出て来た者と信じ」るに至る。
端的に、信仰に至る。
「いのち」に灯がともされる。
神がその人を愛してくださる。
だからその日には、「あなたがたはわたしの名によって求めるのです」。
信仰を持つ者がおのずと求めることを、求める。
イエスは父の御許から世に来られ、今まさに、その父の御許に行こうとしている。
父についてはっきり分かる時が来て、イエスが誰かが分かって信じる人は、そのイエスと同じような歩みになる。
きわめて俗っぽく言い換えると、その人は「天国」に行くのである。
---
よろしければクリック下さい。
![にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ](http://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian80_15.gif)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )