イエスが生きるので

 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネ14:18-21)

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 いわゆる最後の晩餐のさなか、十字架刑を目前にしてイエスは語り続ける。

 肉をまとったイエスは、その十字架に架かって死ぬ。
 だから、「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります」。
 世に来られ世を愛されたこの三年間の方が、例外的だったのだ(ヨハネ3:16-17)。
 では、世はもう二度とイエスを見ないかというとそうではなく、ただ一度だけ見る。いわゆる再臨、世の終わりの時だ。
(世が終わると、輝かしい「第二のエルサレム」がはじまる。)

 さて、もうすぐ十字架に架かるというその時にもかかわらず、イエスはこうとも仰る。
 「しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」
 世からは去りゆくイエスを見る、弟子たちにそう仰る。
 なぜならイエスは生きるから、つまり死んでもよみがえるからだ。
 そして、イエスがよみがえるから、「あなたがたも生きる」。

 復活のイエスは狭き門から連なる道を歩み続けて、いま、ここにおられる。
 イエスがはじめて拓いた(ひらいた)この道を通るとき、その人は復活のイエスに出会って「生きる」。
 いいかえると、この道を通って復活のイエスに出会うことで、その人は十字架と同じく死に、そして復活し、そして初めて本当に「生きる」ことになる。
 人間なので、肉は持ち続けたままであるところが、イエスとの違いだ。
 このように、約束通りイエスは「あなたがたのところに戻って来る」。
 そしてイエスはその人を「捨てて孤児に」することはなされない。
 その人と共にいつづけてくださる。

 この道の入り口である狭き門が見えるならば、それは神の恵みによってである。
 おおぜいの人々が広い門にあふれている。

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