わたしの行なうわざ

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:12-14:14)

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 十字架を前にしての最後の晩餐、弟子たちに語り続けるイエス。

 「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」
 では、「わたしの行なうわざ」とは何だろうか。
 病人のいやしだろうか。
 少々のパンを増殖させて、五千人をも満腹にすることだろうか。
 墓で眠っている死人をよみがえらせることだろうか。

 そうではない。
 たしかにそれらも「わざ」には違いない。
 だがイエスがここで仰る「わざ」は、正に今、目の前にしている十字架とその後の復活という、「これぞわざ」というものだ。
 この「わざ」こそ救いのわざであって、いやしその他とは質的に全く異なる。
 復活のイエスに出会い十字架が見えたその人は、いやおうなく「わたしを信じる」。
 そのイエスを信じる人は、「わたしの行なうわざを行な」う。
 つまり、その人も死んで、そしてよみがえって「いのち」をいただく。
 そしてこの「いのち」によって、その人はこの世を全うしてゆく。
(間違っても、「この世を渡る」ではない。)
 このことこそ、「さらに大きなわざ」ではなかろうか。
 イエスですら三年間だったのだ。

 ただ、イエスを信じると、イエスの御名によって病人をいやすことができるだろうか。
 イエスの御名によって、僅かな残飯で一万人を腹一杯にできるだろうか。
 こういうのは、イエスを試しているのだと思う。
 試しているのであれば、端的に、信じてなんかいないのである。
 そういうわけで、信じる人がイエスの御名によって何を求めるのかは、おのずと定まってきて、「父の御心のとおり」ということに収斂する。

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