リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会の平準化と無規定視点の妥当性(その2)

2020-06-20 11:50:01 | 賃金・価値・権力
 というわけで、オタク用、本日の続き。簡単にね。
 さて、全社会労働者価値論も趣旨は間違っているわけではありません。実際、労働者が働くからみんな生きていられ、資本家も労働者収奪の結果、裕福なわけです。
 そもそも、前回のべた資本主義世界の論理は、資本家が労働者収奪をする世界が存在する場合のみ有効であるに過ぎません。その世界が停止したとき、初めて、社会体制のパラダイムは変更されるのです。それはいつ? 変革(革命)後です。
 変革後すぐの「粗野な共産主義」の段階では、そこに存在する資本主義の「売買」関係しか事実認知していない人間に規定されて、商業の場はまずは「交換」の場となるでしょう。わたしは「交換」ナンセンス派ですが、しょうがないのです。
 ここにおいて、運輸・保管等労働者は、資本家の代わりに資本家が使った剰余価値の源泉である労働者から直接に自分の分配分を受け、賃金を受けていたサービス労働者は、そのサービスの受け手に対し労働の交換要求を行うでしょう。
 このとき、もちろん、交換価値規定は消えて、人間の労働は労働一般となる。
 左翼理論の視座としての価値論は無意味となり、仮にそれでも論理立てようとするのならば、ここで、労働の一般理論が生ずるのです。交換基準も、「平等な」基準として、労働時間と労働強度、あるいはその時代でのその他の有償労働の基準が当てられるでしょう、そのときの人間しだいですが。
 このとき、人間の占有する権利である「生産手段」は、社会全体として、消費物資の生産に使われる全ての機構の人間労働との接点、となります。
 
 ついで、本来の共産主義の段階になって、それまで十分に事実認知された交換の実質のなさが、「交換」の場を「相互取得」の場に変えたとき、人間の労働は、自由な行為一般として存在し、その「労働」たる規定性を喪失し、「価値」や「生産手段」という無価値な概念を消滅させるでしょう。
 
 わからない? 
 まあ、次回作品の宣伝ね、キャプションみたいなものか。他の誰も言ってないので、展開するのはブログ記事では無理というもの。「視点で違う」こと(と、その影響は社会構成で違うこと)だけご理解ください。

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