リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

科学の言葉(その2)

2008-08-10 11:40:39 | 社会学の基礎概念
 一部の言語学では「言葉の意味の大半は使用する場面で決まる」と表現するようです。「暑い」という言葉は、自宅なら「クーラーをつけてくれ」とか、街では通りかかった屋台で「ソフトクリームを買って」とかいう意味となります、って意味合いで。
 しかし、そうではありません。もともと言葉にはイメージしかない。言葉というものは、話す対手の将来をイメージさせることに本質があるのです。似てはいますが、「意味が場面で決まる」のではなく、言葉は「場面を作る」ものであり、作るのが常に話の対手であることから、そもそも、「本当の意味」などというものはないのです。「歴史的に本来の意味」という言い方はありうるでしょうけどね。

 とゆうわけで、抽象的な言葉は定義しない限り、科学の言葉にはならない。たとえば「自由」。
 図書館で、「自由」状況をあれこれ分析するアカデミズム社会学者の本を見つけましてですね。
 彼氏は、社会学を研究することで「自由と権力とは何か」を追い求めてきたんですって。
 いいおじさんじゃん。決して悪口は言いたくありませんが、間違ってちゃしょうがないよね。
 
 世の中に普遍的な「自由」の状況なんてありはしません。
 たとえば、被支配階級は、支配層の指令のない将来をイメージして「自由を!」と叫ぶ。
 資本家階級は関税による減収のない将来をイメージして「自由を!」と叫ぶ。
 そんなの同じ意味なわけないじゃないすか。

 それはどっちが正しいというものではない。被支配階級は、好むと好まざるとに関わらず、現存する言葉、有閑階級が作った言葉、つまり、支配階級・中間階級が教えてくれる言葉を使わざるを得ない。だからといって、被支配階級の言葉が間違っているわけではない。くだんの社会学者先生は、「恋愛の自由」やら「恋愛の権力」やらいろんなことをおっしゃってまして、まあそれはそれで、昔から「プチブルジョワの自由」といって、それもある。それもあるけれど、それを科学の名で呼んではいけない。呼ばないなら私だって図書館から借りて無駄な時間を費やすことだってないし。
 
 結局、普遍的でないことは科学にはならないんですよね。
 いくら自分の自由のありさまを述べたところで、それは他人には該当しない。奴隷に「恋愛の権力」を述べたてて「支配階級も不自由だ」といったところで殴られるのがオチだ。「いや、奴隷も恋愛すれば該当する」とかって口走ったら殺されてもしょうがないでしょうね。
 
 しかし、
 科学とはそういうものであってはならない。科学とは、「するための」真実、因果連関の学問です。
 
 ちなみに、ご存知と思いますが、私の言う自由は、個人の行為の自由です。
 言葉は意味するところは違っても、その中に共通点がある。
 自由という言葉の最大公約数は、人間の行為の原則に基づき、自分が思った将来が、次の瞬間に実現することを指すことに根拠をもちます。自由を語るなら、自由になるための方法を述べなければならない。
 もちろんそれは、「現代資本主義社会で小市民が恋愛で自由になる方法」であってもよい。それなら奴隷も憐れみの一瞥をくれるだけで、支配階級への闘争へ戻るでしょう。

 なお、ネット検索では未だに「自由には2種類ある」などというのあります、っていうかそんなのばかりが初めに来ます。もともと言語植民地イギリスの特殊事情を、欧化主義者がことさらに言い立てた話ですが、いかにも田舎もんですよねえ。ネットって、年齢が分からないからねえ。みんな60過ぎが書いてるのかなあ、、、


 
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