こんにちは。まだ早いですが、一昨日はあわてて無駄口を書き飛ばしたもんでちょっと後ろめたく。少し役に立つことを書いておこうかと思いまして追加。
さて、本日は何かの参考図書探しで引っかかった盛山和夫「社会学とは何か」の件。といっても、読んで失望でしたので取っ掛かりだけですが。近くの図書館が工事でずっと休みだったので、題名をメモしておいただけで何を探してたかも忘れてしまった。が、おそらくテーマは、社会を人々の意味世界だと断じる論者は、何をもって社会の客観性を主張するのか、という話。不明のまま終わりました。
盛山という人はわたしのレッテル貼りでは40年間「ただの中道右翼」で好きではありませんでしたが、この本によると左翼幻滅派で、さすがに今の自分の子供世代の社会学者の斜に構えた学問姿勢は間違いだろうとおっしゃる、まあ理解してもいい範囲内の人でした。
学問のうちの「視座」はイデオロギーですから、自分の嫌いな人は読まないでよろしい。方法論の参考のため以外には自分の役に立ちはしない。なんてはっきり言える人はめったにいないでしょうが。
で、彼によると「社会的世界を形作っている根底にあるのは、われわれの主観的な「意味世界」である。意味世界とは、観念世界といってもいい」。
で、社会システムとは、結局、「システムを想定する諸個人の価値関心、本書の言葉で言えば、「意味世界」において存在するものである。そういう意味で、フィクションである。」とのこと。
なんと呼ぼうが自由だが、じゃあ「フィクション」と表現する実用的意味はなんなのかをいわない。さらに結局社会とはなんなのかもいわない。それらは社会学の探求課題なんだそうだ。自分が分かんないからって、そういう言い方もなかろうに。まさか社会はフィクションだから、ないと思えばない、などとはいうまいね。
「意味世界」? まあよしとしよう。では、しかしてその実体なにか? それはたとえば私の、心の移ろいゆく流れの平面的切り取りにすぎない。要するに「言葉」でしかない。私の今日の意味世界は昨日の意味世界とは明らかに異なる。社会学者氏は、その何を捉えてくれるというのか。無意味です。
社会システムが存在する? いくらなんでもそんなことはあるまい。そうではない。デュルケームやスペンサーやパーソンズやルーマンを見慣れている人間には分からないかもしれないが、そんなシステムはどこにも存在はしない。それは、社会過程があたかもシステムのように見えるから、その現象を捉えて「システム」というだけなのだ。木材構造物が急激に酸化しているだけのことを、実用的に「火事」と呼ぶようなものだ。
社会学が前提としあるいは探求しようというものは、第1に、行為者が外界に反応して生存するという事実であり、第2に、行為者が問題にする外界の大部分は、社会過程として別の論理で把握しうる、(その他は自然の過程である)という2点に基づいた事象なのである。後者の社会過程は、その過程を経験的に見れば、個人行為者の意思とは別の論理で動いているように見え、しかも個人行為者はその過程内を半強制的に動かざるを得ないから、これをシステムと呼ぶのである。盛山氏はこの経験性を認識されないようだが、圧倒的なサラリーマン諸氏は、外部「社会」の拘束性をそれぞれに経験的に理解されるであろう。
さて、しかし、では社会学者は社会システムを詳細に分析すればいいのかといえば、そうではない。そんなものを分析するのは、せいぜい経済学者の役目である。経済学者は経済的な社会過程を分析し、人間行為者に関係のあるファクターの動きを見せてくれる。経済学のやれることはそこまでである。それらのファクターは、個々の人間行為者がそれらをどう受け止め、どう扱うか、によって初めて実用的な意味を持つ。このセンテンスを受け持つのが社会学者である。そしてこの2段階のプロセスの解明が、行為者が関わる「社会」の解明なのであり、そういいたければ行為者の持つ「意味世界」を解明するということなのである。
明快でしょ。
ダラダラ1冊の本を書くまでもない。ブログの1ページで済む。
ついでにもう一つ教えてあげましょう。この2段階のプロセスを一つにして把握するものが、「規定性」なのである。社会科学者は「行為の理論を踏まえることにより、社会事象の規定性を明らかにする」というスローガンで、自前の研究を統括して把握・提出することができる。何一つ迷う必要はない。
ただ探すべきは、自分の研究の社会的意義であり、すなわち自分が生きる意義なのだ。
さて、どうでしょうね。私のほうが東大社会学教授より本物だと思いません?
さて、本日は何かの参考図書探しで引っかかった盛山和夫「社会学とは何か」の件。といっても、読んで失望でしたので取っ掛かりだけですが。近くの図書館が工事でずっと休みだったので、題名をメモしておいただけで何を探してたかも忘れてしまった。が、おそらくテーマは、社会を人々の意味世界だと断じる論者は、何をもって社会の客観性を主張するのか、という話。不明のまま終わりました。
盛山という人はわたしのレッテル貼りでは40年間「ただの中道右翼」で好きではありませんでしたが、この本によると左翼幻滅派で、さすがに今の自分の子供世代の社会学者の斜に構えた学問姿勢は間違いだろうとおっしゃる、まあ理解してもいい範囲内の人でした。
学問のうちの「視座」はイデオロギーですから、自分の嫌いな人は読まないでよろしい。方法論の参考のため以外には自分の役に立ちはしない。なんてはっきり言える人はめったにいないでしょうが。
で、彼によると「社会的世界を形作っている根底にあるのは、われわれの主観的な「意味世界」である。意味世界とは、観念世界といってもいい」。
で、社会システムとは、結局、「システムを想定する諸個人の価値関心、本書の言葉で言えば、「意味世界」において存在するものである。そういう意味で、フィクションである。」とのこと。
なんと呼ぼうが自由だが、じゃあ「フィクション」と表現する実用的意味はなんなのかをいわない。さらに結局社会とはなんなのかもいわない。それらは社会学の探求課題なんだそうだ。自分が分かんないからって、そういう言い方もなかろうに。まさか社会はフィクションだから、ないと思えばない、などとはいうまいね。
「意味世界」? まあよしとしよう。では、しかしてその実体なにか? それはたとえば私の、心の移ろいゆく流れの平面的切り取りにすぎない。要するに「言葉」でしかない。私の今日の意味世界は昨日の意味世界とは明らかに異なる。社会学者氏は、その何を捉えてくれるというのか。無意味です。
社会システムが存在する? いくらなんでもそんなことはあるまい。そうではない。デュルケームやスペンサーやパーソンズやルーマンを見慣れている人間には分からないかもしれないが、そんなシステムはどこにも存在はしない。それは、社会過程があたかもシステムのように見えるから、その現象を捉えて「システム」というだけなのだ。木材構造物が急激に酸化しているだけのことを、実用的に「火事」と呼ぶようなものだ。
社会学が前提としあるいは探求しようというものは、第1に、行為者が外界に反応して生存するという事実であり、第2に、行為者が問題にする外界の大部分は、社会過程として別の論理で把握しうる、(その他は自然の過程である)という2点に基づいた事象なのである。後者の社会過程は、その過程を経験的に見れば、個人行為者の意思とは別の論理で動いているように見え、しかも個人行為者はその過程内を半強制的に動かざるを得ないから、これをシステムと呼ぶのである。盛山氏はこの経験性を認識されないようだが、圧倒的なサラリーマン諸氏は、外部「社会」の拘束性をそれぞれに経験的に理解されるであろう。
さて、しかし、では社会学者は社会システムを詳細に分析すればいいのかといえば、そうではない。そんなものを分析するのは、せいぜい経済学者の役目である。経済学者は経済的な社会過程を分析し、人間行為者に関係のあるファクターの動きを見せてくれる。経済学のやれることはそこまでである。それらのファクターは、個々の人間行為者がそれらをどう受け止め、どう扱うか、によって初めて実用的な意味を持つ。このセンテンスを受け持つのが社会学者である。そしてこの2段階のプロセスの解明が、行為者が関わる「社会」の解明なのであり、そういいたければ行為者の持つ「意味世界」を解明するということなのである。
明快でしょ。
ダラダラ1冊の本を書くまでもない。ブログの1ページで済む。
ついでにもう一つ教えてあげましょう。この2段階のプロセスを一つにして把握するものが、「規定性」なのである。社会科学者は「行為の理論を踏まえることにより、社会事象の規定性を明らかにする」というスローガンで、自前の研究を統括して把握・提出することができる。何一つ迷う必要はない。
ただ探すべきは、自分の研究の社会的意義であり、すなわち自分が生きる意義なのだ。
さて、どうでしょうね。私のほうが東大社会学教授より本物だと思いません?
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