リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

具体性の次元での因果連関

2021-10-23 16:11:32 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、昨日は雨降りで11度の真冬の寒さでしたが、今日は平年並みの良い天気。このくらいの日が続いてほしいものです。
 昨日は寒さにもめげず、隣町に平日ランチに出かけました。高齢者と呼ばれて我慢できるのはこんな場合だけ。まあいい目の時はしょうがない。
 2年ぶりの屋内ランチはまずまず。ワクチンを打った甲斐があります,というより、コロナはどこに行ってしまったのか。この秋は2年ぶりの紅葉狩りに行きたいので、それまでコロナもなんとかもってほしい。明日は日本全国晴れのもよう、経験上はたぶん栃木以南は山のてっぺん以外、紅葉はまだだと。といって青森の山は雪なので、堂々と真ん中の山形・福島辺りがよいでしょう。なんて言いながらわたしはまだ電車2時間の安全性は信じてないので、来月高尾山かな。東京から2時間なら安達太良山には行けるけど。
 
 本日のニュースは選挙かな、今朝のニュースではほんとに「我が党こそは」とバラマキ合戦をやっておりました。これじゃどこが勝っても庶民はバラ色か? 投票しようにも区別がつかないんじゃない? 年寄り向けの政策はなかったようだけど。
 こうゆうバラマキ宣伝は、収入方法合戦に変えれば各党の旗幟(きし・のぼりの色)が鮮明になってよかろうと思うのですが。
 共産党は所得税・法人税の累進課税でしょ、自民党は「何もしない」でしょ。維新の会も「何もしない」でしょ、立憲民主は、、、その他は全然知らんわ。どれだけ嘘つきかバレてよい。もっともそれじゃあ都合の悪い人間ばかり。庶民には知らしむべからず。

 さて、本題。今日は純粋のオタク記事。みなさまの良き秋休みをお祈りいたします。
 
 先週、「すべて規定性の消えた社会現象は、「名付けて」はいけない。それでは社会学だ」と書いたところ、これじゃマルキストにしかわからないだろうと思って。注釈、長いけど。
 
 まず、ここでいう規定性とは何でしょうか?
 規定性とは、それに関わる行為者の意思の如何にかかわらず、結果としてその「規定性」が示す理論的方向に事態が動くきの、その論理的先見です。すなわち環境による行為者への強制について把握されたその根拠です。 
 たとえばある生産共同体内の農民は、彼個人の意思にかかわらず、生きていくために生産共同体の多くの「キマリ」に従わなければなりません。このときの行為者の生理的身体維持の条件が「規定性」です、 
 イエの問題の場合、日本では村落共同体の「キマリ」に従うことは絶対ではなくなりました。町に出て他の産業へつけばよいからです。そうされては困る村落共同体の権力者は態度を軟化させざるを得ません。かくて日本には「イエ」の規定性はなくなり、その観念は思い出と同情の中に生きるだけとなり終わったのです。だからこの時の家族を「イエ」と呼んではいけません、ということです。ぜんぜん歴史的規定性の違うものに同じ名称を振るのは、結局何もわかっていないということです。
 
 さて、当然のようなこの事情を、ブルジョワ社会学では無視をする、というより気にもしない。
 
【因果連関の立言ではなく、行為の評価過程に使用される因果連関】
 
 今知られている「社会学」は、研究者が作った箱庭理論の社会学以外は、具体的人間についてのリサーチです。

 ある行為者の行動は、研究者が視点をどうとっても現実に変わるわけではありません。その行為目的から見ればいく人もの行為者が同じように間違ったり、また、好き勝手なことをしたり。そうして社会は動いていく。しかし、視点の如何によって変わるものがある。それは、ある行動の意味付けです。 
 規定性の中に組み入れられた行動は、その規定性に対する意義によって次の行為者にとって評価され、使用される。
 しかし、具体的場面での行動は、全体の中ではなく、その行為に即して評価される。或る他者の(例にしようとする対象の)行った行動は、あるときはマネすればよいですが、あるときは決して使ってはいけません。まだ迷いの中のテーゼです。その迷いがその社会の行為者にどう現象し続けているか、を明らかにすることが、具体性の理論の第一義的な任務なのです。
 そこでは行為者を規定する要因の姿を語ることはできません。そこで語れるのは、ある規定性の下の行為者の行為論的(場合によっては心理学的)な法則性です。
 この場合の法則性は、形式社会学的な法則性とならざるを得ませんが、初めの規定性の固定により、空語を免れることはあります。
 つまり、この固定性とは論理によって確定されるのですが、具体性という研究では「現象の継起」の理論として結果するのです。
 もともと形式社会学の否定面はその非歴史性にあるのであり、この歴史性(=状況条件)が固定され、状況が限定されれば、別に非難されるゆえんはないというわけです。

 さて問題はそこではありません。問題は、では相手はそれぞれ個性のある気ままな個人の行為だというのに、科学としての法則性は何を担保に確保されるのか、という点にあります。
 それはもちろん行為理論です。
 行為理論において、ある規定性の下の個人行為者の行為は客観的に想定しうるものとならざるを得ませんか、それが具体性の社会学の、しかし抽象的な筋道なのです。

 例をだしましょう。
 たとえば、システム論上の因果連関に、「運動はその権力性により行為者の賞賛と優越をつかみ、それにより行為者を運動の理念の拡大に参加させる。この権力への対抗は、現象面はどうであれ、究極のところ人間の自由を拡大する。」と記する簡単な記述があったとします。ここでは運動の社会構成員による拡大についての因果連関が書かれています。

 この同じ現象について、具体性の因果連関は、「ある人間が、世間で女性へのハラスメントが問題化している場合に、自己の過去のセクハラ例をネットに上げてさらに同様の非難に交じった場合、その行為は、その反セクハラ運動の理念を当該社会に広げることができる。ただ、広げたからどうなるのかはあずかり知らぬところである。」と書かれる。あるいはそうとしか書くことができません。それが具体性の次元です。
 「当然だ、そのために行動をしてるんだ。そんなことをわざわざ聞きたいなどと思わない」というのが運動内行為者の反応でしょう。
 おっしゃるとおりです。そんなものは科学でも何でもありません。それが科学であるためには、その文言の合間を理論的に確定させる手続きが必要となる。なぜその行為が運動の理念を社会に広げるのか、当該行為者に理解しうるその他の人間の行為の継起の行為論的(心理学的)説明であり、その行為の継起が、どんな環境要素の配置の中で生じてしまうか、の理論的確定です。
 つまり、具体性の次元では、ある社会事象の持つ社会システム上の意義は語ることができません。もちろん人は論者も自由に知っていることを表現していいのですが、しかし、この点に関しては知っている論者が書いても「付記」にしかならない、ということです。具体性の次元で説くことのできることは、システムの姿ではなく、あくまで当人と他の行為者の行為であり、その連関なのです。これは実は当然です。行為論しか使っていないのですから、その結果は行為の次元です(たとえ隈のように意識的に定理化しないにせよ、それならそれで実は日常の行為常識を使うしかないわけです)。つまり具体性の社会学とは、誰も気づいてはいませんが、他者の行動様態把握の「科学」なのです。決して「社会」の科学ではありません。そういって悪ければ、その社会学の「社会」とは、他者の行動様態なのです。同じことですが。

 つまり、全体体系を問題にするときの課題は、トータルとしての社会事象が全体社会にどうかかわっているか、ということの解明です。この過程において個人の行為がどうかかわるか、ということはその個人の立場によって異なるものであり、それは個人行為者の生き方にゆだねられる。
 対して具体性の次元では、個人の行動そのものが問題なのであり、その結果の解明が一歩一歩進めばよいのです。その結果何百歩後に社会システムがどうなるかを告げるのは、2次的な問題です。
 もちろん、生活する行為主体は現実には全体システムを見据えて動かざるを得ません。ここで個人行為者を、ある程度、固定化することにより、その行動の結果で社会システムがどうなるかを、科学的に、客観的に、個人行為者に知らせることができます。ただし、その「固定化」は、「社会学」プロパーの課題ではありません。当該「社会学」によって人間の解放への道が明らかにされることはありません。私などには信じられませんが、「それでよい」と現在の社会学者の98%は言うでしょう、現行の社会学とはその最良の部分でもそういうものですから、そこから先はわたしのせいではありません。それが「社会学」というものです。
 
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