リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「今日も歩まざるを得ない」歴史

2019-06-08 13:56:09 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、梅雨ですってねえ。まだ若い皆様におかれましては、「いっそ梅雨」というのも楽しいものです、のはずです。ハナショウブ、アジサイというのは梅雨しか咲きませんし、そんなのって少なくとも東京方面は楽しむに事欠きません、じゃなくて地域欠きません。いつか書いた気もするけど、私は鎌倉、明月院ではなく、東慶寺の花菖蒲、紫陽花が好きでした、と過去形。もう何十年も行ってないからね。お寺もまだあるか知らないけど、奥の墓も梅雨は暗くてよし。
 ところで、ふと、思い出して検索しても、全容が分からない絵描き歌。
 『六月六日の参観日、雨がざあざあふってきて、あられもポツポツふってきて、たてたて よこよこまるかいてちょん、、、、あっというまに たこにゅうどう』
 「、、、」になんかはいると思うのだけれど、各種各様、みんな勝手なことかいててわからない。勝手ったって、地域差でしょうけど。といっていまどきはテレビで習うようで。
 
 さて、今朝のyahoo巻頭写真は気持ち良さそうに空を飛ぶトキ。
 「環境省は7日、佐渡トキ保護センターの野生復帰ステーション(新潟県佐渡市)から、国の特別天然記念物トキを計20羽(雄14羽、雌6羽)放鳥し、全羽がケージから飛び立ったと発表した。」(時事通信)。
 「カモメに飛ぶことを教えた猫」って知ってる? ルイス・セプルベダという人の本。川崎では中学校で劇団四季の劇としてみるもよう。
 書き人不明の要約、「不運なことに油まみれの波に飲まれてしまったカモメのケンガーは、最後の力を振り絞り卵を産み、太った黒ねこゾルバにその命を託す。ゾルバは知合の猫たち、そして人間の力を借り、(そのヒナの)フォルトゥナータに飛び方を教えることに成功する」。絵本のように気持ちが良くてよろしい。
 〆のゾルバの言葉。「飛ぶことができるのは、心の底からそうしたいと願ったものが、全力で挑戦した時だけだ」、それも自分たち周囲の者の役割を否定する非論理的な言葉だけどね、まあ絵本というのはそういうまとめ方をするものです。絵本好きな人にはお奨め。

 ニュース。「自民党の小泉進次郎衆院議員が6日付の自身のブログで、党から厳重注意処分を受けたことを明らかにした。小泉氏は6日の衆院本会議で全会一致で可決された丸山穂高衆院議員に対する「糾弾決議」の採決時に退席。「みんなで糾弾するということに自分の中では腑(ふ)に落ちなかった」と記者団に述べ、国会の対応を批判して…」(朝日新聞)
 えらいじゃんか。一人だけ退席。というより一人だけしかいないってとこが議員も地に落ちてるね。付和雷同、尻馬に乗る、長いものに巻かれる、こんなもの政治的意見以前の態度だね。
 まあ、「小泉も他人事じゃないだろう」という意見もあるようですが、ともかく、その他大勢が情けない。それじゃあ、「正しくない」なら地獄に落ちよと責め立てるネットいじめっ子集団と、どこが違うのか。 
 ま、本題が長いので、終わり。
 
 本題は、借りた本が興味深かったので。「立ちすくむ歴史」喜安朗/成田龍一/岩崎稔/の鼎談、変な題だねえ、題付けの理由が本には見つからないが。
 内容は、歴史学者の歴史観の推移について随想を語り合うだけなのでどうでもいいのですが、結論もなしにしゃべられてもいらいらするだけなので、ここで正しい立場を披露しておこうと。
 
 まずは、「事実」とは何か。
 「事実」などというものは、そもそも論からすれば、五感に表象された環境事象の変更に過ぎない。つまり、本来は何か確固とした物体や具体物ではない。これをいかに「事実」と呼ばれるものにするかは、すでに、当該受け取り手と、受け取り手の表現を聞いた他者との、ある意味観念的な、問題である。
 が、だからといってこれを「言語論的転回」などというのは、恣意的な評論作業あるいは遊戯に過ぎない。この社会関係で重要なのは、使った言葉ではなく、指示された環境のパーツであり、その環境のパーツへの過去の両行為者の事実認知であるからである。

 たとえば街角で赤ん坊を抱っこした女が胸から血を流して倒れた、女はもう息をしていない、これが日本語でいう「事実」である。しかし、この直前に銃弾が飛んできて女の胸に当たっているとき、これを生活者であれば、女は殺された、と言う。さらに銃弾の銃が兵士によって持たれていたとき、女は兵士によって殺された、というだろう。さて、これは事実だろうか? 実は兵士の意図としては女の後ろで吠える狂犬を狙ったのだ。しかし、女が兵士に殺された、という話自体は、世に語り継がれる「事実」である。
 ここで女が兵士に殺されたことが事実かどうか、は、歴史にとっては問題ではない。それが「言葉」でしかないから問題ではないのでなく、すでに歴史はこの認知の下に先に進んでいるからである。人間の関係というものはそうやって進んでいく。「そもそもそれは事実か」は、歴史ではなく、兵士という個別の人間存在の問題であり、彼の家族や友人の問題である「にすぎない」。つまり、個人の誇りや刑法や軍法会議の問題でしかない。
 こうして、語られる歴史としての事実はそもそもは「事実」などではないけれども、生活者としては、その語られる事実が「真実の事実」として扱われて不都合はないのである。、
 
 さて、ところで、ここで進んでいく歴史は時系列としての歴史にすぎない。時系列としての歴史によって語られることは、その次に生ずる出来事の「納得」である。この女はガザの住民であり、兵士はユダヤ人であったとき、人はこの事件の後に起こったガザ地区の暴動を納得することができる。こうした性格の「歴史」が時系列の歴史であり、基本的に歴史家が「その提示も歴史学の大きな部分だ。」「いやそれこそが歴史学だ。」と認め合うことだろう。
 さて、それらが歴史学である。そして決して社会科学ではない。
 そもそも歴史は、歴史家が思っているような、自分が自分が書いた本で表わしたかったようなものではない。それは、人間にとって、時間的に過去と認識された一連の事象ということ以外にはない。それは一連以上のものではなく、その一連に行為論上の意味があるかどうかがその行為者の事実認知に関わるだけである。もちろん、「全歴史を通した意識」などはあるはずもない。「その長い数個なり数十個なりの連なる歴史の結果が集約された結論的事実」以外には、行為論上で意味をもてないからである。
 歴史学が人間の科学と融合するのは、それが他の現実に有効な因果連関の提示に貢献するときである。すなわち、大塚久雄(がとった態度)である。別に大塚久雄が正しいといっているわけではない。その方針が科学と歴史学の融合だといっているだけである。正しくなければ反論すればよいし、それが可能なのが科学のとりえである。

 「なんだそんなことか、お前の持論は聞き飽きたぜ、これで気が済んだか」と思われたら、それではまだまだ聞き足りてない。
 ここまでは歴史学であって歴史ではない。世間は寝言を言ってふんぞり返っている老若の歴史学者ばかりであるが、歴史は決して歴史学者のものではない。生きている人間のものである。歴史とは我々であり、死んだ我々の友であり、あるいは敵のことなのだ、まあたまには親の場合もあろうが。
 生きている人間は生きている限りにおいて、自己の歴史を持つ。まあ上述の学者たちは遊んでいたから、そんな基本的な70年世代の認識を持っていないだろうが。まあ、若人の皆さんに伝わらないうちに、都合の悪い過去を振り捨ててエリート街道へ走った学生諸君らが悪いともいえる。ともかくそれは「立ちすくんで」などいられない、今日と明日の「我が事」なのだ。「今日も歩まざるを得ない」歴史なのである。
 元に戻って、この「歴史」の構成素は、時系列の出来事ではない。
 それは出来事の意義であり、出来事を担った人々が持った意味であり、それを我が物とした行為主体の存在意味である。
 出来事を担った人々の意味は時系列で叙述できる。しかし、出来事の意義は科学でなければ解けない、それなしに人は歴史を我が事とすることはできない。過去の出来事を因果連関で把握しそれを未来への過程として捉える、しかして自己の次の瞬間の行為の未来を因果連関の過程として捉え直す。この二重の因果連関を把握するのが、社会科学なのである。

 ここで念のため初心の方に語っておきますと、世の中に「無色透明の事実」などというものはないのと同様、科学の意味や意義は、常に行為主体の志向性と共にあるのです。無色透明の意義などというものはない。ある研究に意味がある限り、その研究には行為主体の明日歩むはずの志向性が伴っているのです。
 当然、歴史とは、研究者(としての個人)が対象から掘り出し、切り出して、再構成したものです。この研究対象の運命は、営為を行う人間が人間である限り免れることがない。研究者(としての個人)は対象の性質を選び提出することで、歴史を自分と自分に連なる他者のために構築する、それ以外に道はないのです。
 と、ここまで言えば隈の著作の読者には、「そういやこいつの本はそうだ」と思ってもらえるでしょうが、次作品はもう少し強調して提出しようかと思うところであります。
 結局、まともな学徒が提出する作品は、一生をかけて螺旋的に同じところを回るしかない、と思われます。武市健人にしても西田幾多郎にしても宇野弘蔵にしても。
 
 (P.S.世の中には「歴史的な過去」と「実用的な過去」の区分け、みたいな話があるんだって(ヘイドン・ホワイト)? そんな文学者と並べられてもおぞましいので一言言っておきますと、それは事実の否定による科学の否定であり、プロパガンダの称揚による科学の抹殺です。歴史家たる者がそんな戯言に踊らされるとは世も末ですね。書物は流行に乗って売れりゃあいいのか? なお、川崎市の当該書はずっと借りられてるんで読んでいない、本橋哲也(東京経済大学教員)氏の書評よりの感想。ところでこの氏の書評も混乱している。「「真実」の呪縛から歴史を「抑圧された他者」の領域へと開くのである。」だと、冗談じゃあねえよ。真実の呪縛ってなんだよ。人間が生きることは真実の問題じゃあねえよ。真実は真実。構成が歴史家の都合で変わるだけ。いかにウソに見えようと構成素は真実。かたや、本橋氏には「他者」であろう私やアポリジニの生は、真実であろうが虚偽であろうが余計なお世話だ。それは一つしかない私たち自身という行為主体の譲り渡せない生なのだ。ってこれじゃわかんねか。われわれ被抑圧者は他人様に哀れんで取り上げてもらう必要などこれっぱかりもないのだよ。私もアポリジニも仲間と共に生きている。そのわれわれを自分の歴史学に組み込みたいのなら、それは歴史学者その自己の問題(でしかないもの)なのだ。10年前だってやれば勝手にできたのだ。まあ、本物の歴史学者はわかっている、つまらないことだが。)


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