リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

方法としての弁証法・(その5:その組み合わせと段階論)

2020-01-04 15:53:02 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。三が日が過ぎてしまいましたが、多数の方は明日あさってもお休みでしょうね。ただ、私のようにテレビを見ない毎日休日者には、もうお正月はおしまい。元日にはお客さんに来てもらいましたので、お正月に悔いはなく。自分で飲みにお宅をおジャマするのも決して嫌いではありませんが、気を使うのはとても苦手なので、もうこれでいいや。
 昨今は忘年会スルーとかが流行ってるそうで。上司の相手がいやだとか。そんな会社には勤めたくないねえ。私は出世とか眼中になかったからそう思うのかねえ。部長におべんちゃら言ってる課長とかいたからね、課長は可哀想だけど、おかげさまで部長と付き合わずに済んでよかった。ま、いい部長もいたけど。
 
 そういえば暮に思ったのですが、いまどきのスーパーの刺身パックは正直だねえ。高価なイカの刺身にはちゃんと「アミノ酸」入りと書いてあるし、高価なトロの刺身には「植物油」入りと書いてある。普段は生イカが買えればそれで作るし、マグロはビンチョウかキハダだから、知らなかった。
 書いてあるのはいいけど、せっかくのご馳走にどして入れるんだろうねえ、日本人、舌が曲がっちゃったんだろうか。 ほんとに高価な刺身には入いってない? 知らねえや、そんなの。
 ついでに悲しいことには、またネスカフェ大衆ブレンド、エクセラが変わってしまって。悪くなるばかり。前の変更は許容範囲だけど、今度は珈琲の香りが失せてしまった。焦げ臭いばかり。味は大して変わらなくとも、もともと大した味じゃないところを香りでもってたのに。まあこれはごく個人的な嗜好だけど。
 
 さて、正月だからニュースなどない、といいたいところ、ゴーンだなトランプだの、NHKニュースに限ってはなかなか忙しそうでしたよ。なんなんだろうね、あいつら。といってとりあえず感想は皆様と同じ。ただの感想にしかなりません。とくにトランプというか、イラン。ほんとどうなったって知らないよ。

 で、とくに本のお奨めもなし。やめたほうがいいよ、というのはあるけど。
 それにしても川崎市図書館って働かなくてさあ。おおむかしからだけど、まだおおむかしが続いているのだよ。市役所はやるようになったのに。と、ついに言ってしまった。味方になるかどうかは普段の行いの結果というものだからね。窓口の委託の人は悪くないけど、一歩踏み込むと呆れ返ることばかり。
 
 というわけで。オタク的本題。
 「方法としての弁証法」(その3)で、弁証法では本来、歴史は扱えない、といいましたが、扱う方法もある、という話で。
 歴史の流れは扱えないが、歴史の筋道は扱える。歴史の過程は扱えないが、歴史の規定性は扱える、といった趣旨です。
 (その3)では、隈は
 『資本主義の富は、商品からできている、ではこの商品の規定性とは何か。それは使用価値と交換価値「ではなく」、『支配』と『労働』である。支配は人間から生産手段を取り上げ、これを資本家に引き渡した。かくて、生産手段を取り上げられた人間は労働を他の人間に売り「労働者」と呼ばれる。売られた他の人間は「資本家」と呼ばれ、自分で労働せずに、労働者を働かすことのみに自己の労働を束縛する。これが世間で言う「労働力の商品化」である。売った労働は剰余価値を作り剰余価値が変態する。これが原理論を構成する。』
 と述べたところです。
 正確には述べてはいないのですが、述べる一歩手前まではしゃべったので、時間の節約のため、述べたことにします。今日はそこから先です。
 
 さて、ここでほおっておかれた「支配」という規定因が、別に歴史を形作り続ける。
 今は私の理論の宣伝ではないので、ここで歴史が、重商主義・自由主義・帝国主義と進んでいくとしましょう。とりあえず「歴史の流れ」です。これはいくら微にいり細にいり展開しても、ただの説明です。歴史家でも経済史家でも分かる平凡な話です。しかし仮に原理論が既にその時々の支配者の経済的期待を明らかにしていれば、この支配の一面を明らかにすることができます。つまり、なぜ支配がこの3形態を通るか、それが知りたい人間がいれば、歴史家がいくら弁を費やしても、その謎に達することはできません。研究者はこの不明な規定性を入手するために、原理的規定と支配者が行う政策行為、つまり経済政策、財政、国際的関係とを2側面において、後者の側面を明らかにしていきます。このとき、原理論で収奪のポイントが明らかになっていれば、今扱った「歴史の流れ」は、歴史家の饒舌に任せることなく、1冊の書物を編むことによって、読者である労働者人民にその必然性を理解させることができます。この結果を人は、資本主義的支配の必然的展開過程として把握することができます。これがご存知の段階論です。段階論の本質は、この2通りの弁証法の構成にあるのです。
 なんて誰も聞いたことがないでしょう? 
 もっともマルクス主義者の間では段階論などはぶうぶういわれるだけで「やったね!」と褒められることもなく消えかけているわけですが、それはただ単に、弁証のかけ方が間違っているだけのことです。宇野弘蔵の基本スタンスは、別に間違ってはいない。他人に「経済政策をタイプ別に明らかにする」とかウェーバーみたいな言い方をするから、誰も恐れ入らないだけのことです。
 
 もちろん、問題は、この解明のどのメリットをとっても、「国家」は解明されていない、ということです。
 岩田弘(という宇野派の世界資本主義論者)などは、宇野から離れたあとはあからさまに既成の「国家」概念を導入して、ただの左翼の戦術理論家になってしまいました。それじゃあなんのための経済理論なのか。
 ま、というわけで、弁証法は歴史にも使えるが、歴史を直接に語るものではなく歴史を「処理する」方法である、ということです。
 
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