リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

国家と操作可能性

2012-04-15 21:25:20 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。関東以西の皆様には、ひととおりお花見はされましたか? 当家は庭(もどき)の桜も葉が出てきて、ああ、そろそろ5月だな、という風情。と思ってカレンダーをみたら、まだ15日で。へええ。 北の方の皆様ももうすぐですね。

 さて本日は勤務があまり面白くなく。
 禍福があざなっちゃうのは常ですが、禍のほうが主観的価値が高いもので。ああ面白くね。
 それにしても若人はいいですね。新規採用の社員の記憶力のよいことといったら。ああ、私も20年前はそうだった、 んじゃないかな、と。
 
 さて本日は、ウサ晴らしで、マルクス的国家概念のあほさ加減について。(「レーニン的」ではありません。)
 
 マルクスの国家概念といえば、順序的に、「ドイツ・イデオロギー」でいいでしょう。
 これは本の名前で、昔からあちこちで出版されてます、が最近の本だと広松渉編集の岩波文庫、これがまあ噴飯本。
 だいたい岩波なんてもんは、40年前から「思想」を放棄して、結局、権力のお先棒をかつぐメディアに過ぎなかったことを露呈しているのですが、(というような岩波書店への反感がわかるのはもう65歳以上だろうね)、それにしても広松ドイデは無残。
 立ち読みしていただければ分かりますが、こんなもん、誰にも読めない。
 主観的には左翼がいるはずの岩波ですが、なぜこんなものが人民の書であるはずの岩波文庫にのるんでしょうか。(とは岩波の良心的平社員用の物言い。ほんとは昔っからダメダメ出版社)
 いや、なぜの理由は分かっているので、広松が東大教授だったというだけですが。
 そんなことはないって? うそつけ。早い話、吉本が岩波から本出すか?
 ま、おかげさんで立ち読みの結果、下記行論の関連部分はエンゲルスではなくマルクスといっていいと分かりましたが、どっちだって同じだね。
 
 さて、同じ箇所のその手前で問題なのをいっておくと、その1 「分業」。
 マルクスの言う分業は、アダム・スミスの描く分業ではありません。ましてやモダンタイムスのような機械的な分業ではありません。
 彼は生活者が漁師と猟師とに分かれる体制を「分業」と名づけ、それが人間を抑圧すると断します。
 わけわかんね。海辺で育てば人は海産物を取るしかないでしょ。
 もちろんそれでは炭水化物不足になるから、山育ちの人間と生産物を交換する。
 人間、おたがいさまだがね。
 それがなんで悪いんだね。
 漁師は「漁師」と呼ばれるのは不本意かもしれないが、魚や貝や海草を取って、今日の仕事を満足に終える。明日は奥さんが山の民から堅パンを交換してきてくれるよ。
 そのこと自体のどこが抑圧だね。

 人間にとっての問題は、そういうことじゃない。

 そんな社会は、魚が取れなければ、あるいは高地でデンプンが取れなければ、そこで崩壊する。
 それが問題なのであって、行為対象が(海と山で)分かれていることなど問題であるはずがない。
 で、彼はこの事態をもって「特殊利益と共同利害との分裂の実例」と称する。理解不能。
 いやほんとは理解はできてるのさ。後進国ドイツ臣民の若きマルクス、国家のおかげで特権を享受していられるマルクスにとって、共同体は神なのだ。
 
 で、マルクスの論の深刻な問題点は、その2。いわく、
 しかして、エゴイスティックな個別利害を追うことしかできない個別個人にとって、共同体の利益の実現は、幻想的な何か別個の存在であり、それゆえに個人に対立する。個人はこれをもって「国家」と呼ぶ。
 って、なに。反動右翼そのものの言ではないか。 国家はそんなに利己主義者の個人が平伏してたてまつらなければならないもんなのか?  
 あほんだらが。同じ左翼として恥ずかしい限り。穴があったら入りたい。
 なにが「若きマルクスの理論的苦闘」だ。そんな時代には既にアナーキストは、「国家は支配者として個人に対立する」と広めきっていたのであり、それにマルクスがようやく耳を貸すには、その後自分が支配階級に痛めつけられ続けた30年が必要になる(ゴータ綱領批判)。(ちなみに、3年後の自称「共産主義者」の綱領のはずの共産党宣言、国家の悪口への言及は1行のみ。それも、「未熟な社会主義者(アナーキストたち)がこんなことをいっている」、という項目にしかない)(さらに人によっては「フランスの内乱」(という本)内のカタコトの修飾語をもってマルクスのアナーキストへの早い反省時期としてあげるやつもいる(ってだれもアナーキストを顧みているわけではないが)。ったく、そこまでしてマルクスを弁護したいんだろうか。隻言半句を探し出してマルクスを弁護する、その奴隷根性こそ憐れみたいものだ。)

 ま、そういうわけで、マルクスの国家概念など笑止なものなのですが、ここで、そうはいってもドイツ・イデオロギーで使われた、国家は『幻想の共同体』論の社会科学の歴史上の結果としての成果の豊富さは否定できないことです。まことに、マルクスは修辞の甜菜ですな。

 というわけで、国家とは、観念的には何かを語っておいたほうがよろしいようです。
 (観念的に言っても社会学的には無益なので、隈の「行為の集成」では、レーニンの概念を褒めておきました)
 
 で、国家とは、観念上は、指令者による操作可能性の観念(的幻想)を抱ける地域上の範囲です。
 この観念を指令者が持ったとき、被指令者は指令者の表現を通じて指令者の可能性について事実認知されます。
 それと同時に、指令者が支配者として被指令者の内部に観念され、その指令者の意図に沿って観念された規範が内面化されます。これが国家的権力の承認の現実化です。
 と同時に、他「国家」に対する操作可能性観念が浮上します。
 この原理に沿って動く歴史の中で、資本主義社会では、商品経済による操作意志の放棄と、自動操作(放任)ー官僚による操作が生じます。

 といったふうに書いておけば、幻想だの、共同性だのという融通無碍な=ただの漫談のネタでしかない規定性(何も規定してませんが)から脱皮することができるのではないかと愚考するところで。
 たとえば、蜃気楼とは幻だ、というよりも、それは密度の異なる大気の中で光が屈折し、地上や水上の物体が浮き上がって見えたり、逆さまに見えたりする現象だ (wiki)。といったほうが、物事が限定される、少なくとも蜃気楼を神のお達しだと解釈する奴はいない、というわけです。
 ましてや「共同性」など、広松にかかっちゃ「相互関係」、すなわち無規定、無意味の極致ですから。
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