リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

かぜかも

2015-03-01 14:14:54 | 断片
 こんにちは。3月、花粉の季節。
 自分がいつも花粉で鼻がやられた次の段階でのどがやられるのは鼻水のせいでやられるのだ、そういう順番だから、と思ってましたが、今年、いやこれもシンプルに花粉にやられただけなのではないか、と疑念がわきました。
 と思ってネットをみると、確かにそんな人もたくさん。折からのどがやられたので、ただの風邪薬(抗ヒスタミン剤)を飲むと45分で効きました。何だ、失敗してた、と。
 つまり、初めは鼻水で薬を飲んでるからのどもやられない。鼻水が止まって風邪薬をやめると、抗ヒスタミン剤も消えたので、のどがやられる、という「順番」。

 これを「本日の役に立つ情報」にしようかとも思いましたが、「順番」の存在に疑念もあり、抗炎剤もある風邪薬ではなくアレルギー薬でのどの痛みが取れないといけないので、実証不足。 またの機会で。
 とはいえ、3月に熱は少しの咳をするあなた、抗ヒスタミン剤をおためしを。

 
 さて、3月は別れと思い出の季節。
 youtubeで聞いたアズナブールの"Hier Encore"。「帰り来ぬ青春」。
 2009年録音とのことですが、老齢の「帰り来ぬ青春」、すごい。さすが。文句なし。
 文句のないところで、youtubeに50代のアズナブールも載ってたんで、どれひよっこの「帰り来ぬ青春」でも聞いてみるか、と思って聞いたら、すごい。さすが。文句なし。
 結局、本当の詩人というのは、いつであれ自分のことを語れるんですね。聞いてるかさだまさし。

 さて、器用がとりえの昔前衛詩人の岡井隆、短歌界の俊太郎ですね(ただし谷川は過去も左翼ではない)。朝日新聞で「自分が転向したのは若いときにはわからないことがわかったからだ。すなわち、短歌というのは日本古来の伝統を背負ったもので、前衛などおこがましい(趣旨)」、とのこと。
 うそをつけ。口先歌に誰もかまってくれなくなったからだろうが。
 短歌の本質が伝統ものだから左翼をやめるというなら永田和宏や河野裕子はなんだというんだ。とんでもねえ口先男だ。
   口先で生き続けた男を見るのはかなしいもんだ。

 ついでさて、本日の「注」にならない書物のぐち。川崎市立図書館唯一の「西洋教育史」本。長田新監修、1959とか。 各国の「大系」はあったのだけれど重いので簡便に、と借りたら、しかしその実態は「西洋教育思想史」。教育制度の実体等なにもわかりやしない。そんなもの読みたくて借りたんじゃねえ。
 どうも政治学やら教育学などという科学以前の学問では、エライやつのことをおしゃべりすればそれでことがすむという伝統があるんじゃないか、と思うぐらい。そう思うと政治史丸山の所業もわかる。偉いやつのしゃべったことを語ることで自分もその偉い人間と同じに見てくれるとでも思うんじゃないですかね。
 と思うと、富永健一の「思想としての社会学」、これが全部我田引水。どこにも思想なんざありゃしねえ。要は自己顕示家なんですね。
 これに比べて(引越しで捨ててしまって惜しいことをしたのが)新明正道の「社会学史」。本の体積は富永の20分の一ほどですが、思想としての社会学がとてもよくわかる1冊。
 結局、福武とか尾高とか、本当のアカデミズムというものは、そう馬鹿にしたものではありません。
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