リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

実証社会学の意義

2011-10-09 15:32:32 | 社会学の基礎概念

 というわけで、前回の流れですが、実証社会学、
 フランツ・ファノン、「地に呪われたる者」『フランツ・ファノン著作集3』、鈴木道彦・浦野衣子訳 、みすず書房、1969.
 「それのどこが実証社会学だって?」 と非難ぶうぶう、ですね。

 (なお、wikipedia:フランツ・ファノンは、植民地主義を批判し、アルジェリア独立運動で指導的役割を果たした思想家・精神科医・革命家)

 どうやらこの本は「暴力論の本」として流布されているらしい。
 <フランツ・ファノン 地に呪われたる者>でのYahoo検索だと、さすが初めのほうにはそういう誤解は少ないですが、検索を続けると次第次第に読みもしない人間の「書評」が増えてきて、「暴力反対」やらユダヤ教徒の悪口やら、これやらあれやらなんのこっちゃ、と思ってしまう。

 読んでない人、興味のない人には唐突ですが、この本は植民地での人民の現実について、「単に現状を述べただけの」告発の書です。
 呼んだ記憶のある方は、ちょっと記憶を呼び覚ましてもらって。
 Q さて、ファノンの暴力論とはなんですか?
 
 、、、思い出せないでしょう?
 そんなものはないもの。
 植民地での人民の暴力性を語る本書には、べつに特段の理論はない。
 理論はないが、フランス本国の高等教育を受けた人間による、フランスエリート文化を踏まえた、現実の洞察に満ちた叙述がある。
 この叙述自体が、それが現実であればあるだけ、フランス帝国主義には大きな痛手であり、また、植民地人民には大きな助力だった、ということです。
 まったくフランス美文は無駄に長くって往生しますが。

 実証社会学というものも同じ機能を持っています。
 「実証するから実証社会学だ」、と思っていたら大間違い。実証だとかいって、どんな生活大衆でも実感として知っている統計調査結果を「実証」して、なんの学問といえるのですかね。
 そうではない。
 それは人民に現実を認識させるから、大学で教える意義を持つのです。
 現実の提示は、それを許している者を、新たな行為論的判断地点に引き戻させる。
 
 植民地で人民が侵略者に1日中ぶんなぐられ、罵倒され、よつ這いにさせられ、これに反抗すればのどぶえに短刀をつきつけられ、性器に電極をあてられる現実の提示は、自由と平等と友愛の国、フランス本国に対し、賞賛への揺さぶりをかける。
 同様に、そうした侵略者の暴力に、「当然にも」暴力で立ち向かう人民の姿(この「当然さ」が本書で展開されているだけです)は、賞賛の揺さぶられた本国エリートの生理性に脅威を与え、揺さぶりの駄目押しをかける。
 一方、植民地人民は、こんな書物は読めはしないが、それでもファノンという本国系エリートが、彼らの暴力を当然の結果だといってくれているようだ、ということで力づけられる。
 
 同様に、社会学が文字にする老々介護の実態や、40のフリーターの実態は、これを(もちろん)知っていても適当なところでお茶を濁していた高級官僚に、野党議員を間に入れて、再考を突きつける。 
 ま、ウソじゃいけませんけどね。


 というわけですが、同書にも思想がないわけではなくて。
 それが、前回の「いま、公共性を撃つ」が取り上げた、下記。

「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。(…)市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである。」(本書より)

 鈴木道彦(訳者)が広めた、ファノンでは有名な文章で。
 この文章周り(第3章終わり)に、思想といえば思想が載っています。 遅れた人民大衆をなんとか政治の主人公にするための「諸条件」の推薦が。
 ファノンにとって、そんなことは現実にはできもしないことなど百も承知だけれども、白血病で死期の迫った身には最後の文章かもしれない、その祈りの文章が。
 まことに、これらの部分に祈り以外の何かを感じようとするのは、第1章も第2章も読みやしなかった人だけでしょう。
 鈴木道彦も、上記抜粋以上に言及はできなかった、というよりは、ファノンのために、無視した、というところですね。

 それはそれ。
 「橋を作る思想」に限れば、ファノンと、鈴木その他の日本人読者とのすれ違う論点は、植民地とは、マルクス以前の社会状況だ、ということです。
 そこには1個の国家ではなく、2個の違う「部族」状況があるだけだ。はるかに優れた武力と生産力を持つ侵略者部族と、遅れた「工場による教育」も受けていない植民地部族と。
 「橋を作る思想」が述べているのは表現こそ「市民」の行動様式ですが、それは、個人ではないという意味しかない。 ファノンが語っているのは、あくまで『遅れすぎた市民』である植民地住民のことでしかない。「植民地住民になんとか生の主人公たる意識を持たせたい」 ということがファノンの祈りです。その願いが先進資本主義国の国民にも祈られると考えるのは、残念ながら違いますね。
 とはいえ、部族として圧迫されている者が、部族として闘うしかないのと同様、地域人民として圧迫されれば地域人民として闘わざるを得ない、という意味では、前回宮崎さんのひいきも本書全体として同様のことですが。
 

 さて、今回は、実は特に乗り気ではなく、この人がいなければ書かなかったこの文。
 発語能力の高い、文の切れる鈴木道彦氏と、一緒に共訳者となっている
 白井愛(浦野衣子)氏
 なかなかなお人で。
 「このやろう、あたしは負けないからね」
 というまことに潔い一生を終えた方のようです。感心です、というと生意気なら(もう亡くなった方ですので)、感服です、というニュアンスでしょうか。
 ともかく、金嬉老を捨ててプルーストに浸る人より、ポール・ニザンと付き合う人のほうがましだな。(というのも挑発ですね。ご老人にいってもしょうがない。ま、悪口というよりはなっとくでけんな、ほどの意味で。人生いろいろ、くらいは知ってます)
 みなさまも、忘れられた共著者の方も注目してみてくださいませ。
 
 
(P.S.)
 余談ですが、標題の「地に呪われたる者」原題”LES DAMNES DE LA TERRE” というのは「インターナショナル」の「でだし」だそうで。
 http://gunka.sakura.ne.jp/mil/internationale.htm  によりますと
1.
  起て、地に捕われたる者よ!
  起て、飢えに苦しむ者よ!
  正義は火口で轟き、
  最後の噴炎をあげるのだ。
  過去を白紙に戻せ、
  奴隷とされたる群集よ、起てよいざ!
  世界は根底より覆えりて
  我らに適わざる事なし!

    Debout! les damnes de la terre!
    Debout! les forcats de la faim!
    La raison tonne en son cratere,
    C'est l'eruption de la fin.
    Du passe faisons table rase,
    Foule esclave, debout! debout!
    Le monde va changer de base:
    Nous ne sommes rien, soyons tout!

   (繰り返し)
  これぞ最後の闘いだ。
  団結しようぞ、
  明日にはインターナショナルが
  人々の繋がりとなるのだ。

    Refrain:
    C'est la lutte finale:
    Groupons-nous, et demain,
    L'Internationale
    Sera le genre humain.

 よい歌で。
 でも、昔、「他国の大衆とインターを歌っても、日本語での『ああインタナショナール』という箇所はハモるので感動する」 と聞きましたが、これだと(「ああ」がなくて) ハモれませんね。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 公共幻想 | トップ | またはyoutube3件 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会学の基礎概念」カテゴリの最新記事