リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

誰も知らない事象把握と方法との差異(その4)

2023-04-08 13:57:41 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。みなさまには春は満喫されましたか? 東京地方、花見の季節も一応終わって、気ぜわしさもなくなりました。今日(土曜)など、老人関係か、ハイキングの団体を沢山見かけますが、新緑だけならいいや。でも高尾山の山桜は見たい。
 スケジュールが落ち着くと、やっぱり目がかゆくて。でも今年はほんとに鼻への影響が消えました。もう死んじゃうのかな。

 なんでもムツゴロウが亡くなったとか。そこそこ青春時代の人なんですが。訃報欄を見ると毎日、時代に追われます。
 わたしはモラハラだから、ムツゴロウ好きではないけど、しかしすごい人間だとは思います。皆様などはお若いとご存じないでしょうね。北海道の時代に畑氏が書いた本には「到底かなわない」と感心させられます。テレビに出てた頃はもう変すぎる爺さんですが、本の「ムツゴロウの動物王国」みたいのね。畑氏も若いからすごさも一層。
 
 さて今日の新聞、
「社会保険料に上乗せ…だけじゃ足りない 少子化対策、負担増は誰に?」(朝日新聞)。
 ここんとこ忙しかったから知らなかった。なんだよ、社会保険料上乗せって。ほんとに金満サラリーマン政府・官僚なんて家族持ち社会保険料の重さがわかってねえんだね。ふざけんのもいい加減にしろ。そうしたいというのなら、少子化対策などくそくらえだ。もちろん、これはとばっちりで、軍事費倍増がいけないのですが。

 今日の朝日で、ふつうの人でも食べられる食堂車は60年代半ばから70年年代半ばまでの19年で終わった、なんて書いてありました。
 うそ。つまんねえうそ。私は1979年、盛岡から上野までの電車で、ハンバーグステーキを食べました。唯一の経験ですが。大変美味しく、ビールのコップが揺れないのに感心しました。(特急だったとしたら初めて特急に乗ったのかも。行きは夜行急行)
 鉄道はお弁当を食べるのも好きですが、どこの駅の弁当も似たり寄ったりになってしまって、文化は細るばかり。

 さて、オタク話もだんだん込み入ってきて、どれが当該記事かわからなくなりそうなので「(その連番)」をくっつけました。本日は(その4)。

 とっかかりは、日高普「抽象化の問題」『岩波講座哲学12』所収、岩波書店、1968.
 日高氏は宇野シューレ。といっても大内力氏の弟子。宇野学派らしく、「科学の方法は対象によって規定されること。したがって社会科学の方法は、社会の動きによって規定されることが明らかになった」とのたまう。面倒くさいことに、これと対比されるのがう”ぇーばーで、日高氏は彼が「科学の性格を決定するのはもっぱら認識主体の方法だけであるとする新カント派の科学論」だったという。
 これでは隈も新カント派だ。困ったものです。

 さて、以前このブログで述べたように、科学はその対象の「性質」によってその「方法」が決定される。その典型が「自然弁証法」です。人間の自然の認識が弁証法的となるのは、「自然が弁証法的」だからなのです。(2017-09-09)
 しかし、「科学の方法は対象によって規定され」は「しない」。
 自然科学で使われる方法はだれでもご存じのように、まずは、「数学」です。数学の日常的使用分は形式論理であり、近世以前の「自然科学」はこれで叙述されているともいえます。もしも自然科学の方法が自然という弁証法性によって規定されるなら、数学など使えないはずです。
 「それはお前が間違ってんだろう」?
 違あう。
 人間の把握の仕方と方法とは別のモノなのです。人は特定の自然事象という対象について、『その対象が持つ性質が許す方法の中から』『自己の主体的関心にしたがって、彼が把握している対自然的知識による適切な性質と方法を表現する』。この前段と後段は、別の規定性の下にあります。もちろん近世以前の自然科学にも数学を使わないものもあるのは、研究者の主体的関心が選んだ対象について、その対象の性質のうち、主体が認識している対象の性質によるのです。
 述べたように、人間は社会事象の中に、自分が理解しうるエイジェントを見つける。そしてそのエイジェントの5W1Hを設定する。そこから彼のエイジェントの動きが始まるのです。したがって、そこからが彼の認識の方法なのです。彼がエイジェントをどう動かしていくか。彼の過去の自分の環境との対話方法に即してエイジェントが動く。すなわち大方は形式論理であり、それで解けない関連が弁証法的操作となるのです。
 もちろん、経済学もしかり。
 日高その他の宇野シューレは自分の「科学」が唯一だと自己の科学性を標榜しますが、残念なことにそんなものは存在しない。
 さて、誰も知らない一言。
 新カント派が誤っていたのは、彼らが「対象とは独立に」科学の方法があると思っていた、「その1点に過ぎない」。何度も言いたい、誰も知らない一言。私の名誉の問題ではなく、世間の哲学論議がバカバカしくて。アホはもうやめれ。およそ生物たる存在において、「独立に」なにがあろうか。ほんとにくだらない宗教家たちが今もどんどん湧き出てくるので言いたい。
 といって、自称唯物論者がバカでないわけではありません、が、それは時代と共にスイープアウトされたから、追い打ちはしません。
 人間の「社会事象という対象」は、空中に浮かんでいるわけではありません。「既に」対象を認識する主体の頭脳のうちにあるのです。「その性質はもちろん対象に属しはしますが」、認識行為主体は、この既にある知識と交換消除創成を行いながら、認識を深めていく。何度も言うようにこの方法が「社会事象という対象に備わった」形式論理と弁証法です。
 さてその前に、その加減消除の舞台を作るのが視点と視座であり、これは「社会という対象の中ではなく」諸関係の中で自己の頭脳のうちにあり、「したがって、どう設定しようと個人の自由」なのです。

 ま、難しいやね。
 ここに出てくる登場項目は、
 1 性質を持っている、と言わざるを得ない対象、と
 2 それを見ようとする主体の主体であるという性質
 3 行為主体が扱おうという対象の限定化
 4 限定された対象の性質とみられる側面
 です。
 1と4が方法に関わり、2と3が主体に関わります。
 かくて、1と4は「探求者の意思の如何にかかわらず同じ」であり、2と3は「自由」なのです。
 
 
 でさ、ネット情報に
 「目からウロコ…東大の総長が「自分の頭で考えよ」という物言いを「危うい」と感じた理由」(4/3(月) 7:32配信 現代ビジネス) 
 なんちゅうのがあり、蓮實重彦が「頭で考えたってたかが知れている(趣旨)」、と言ったそうな。文芸評論家なんてそんなもんよ。学長になるのはやめれや。
 いやしくも社会科学に関わろうという人に限っては、自分の頭で考えなさい。長い目で見ればそのほうがずっと効率的です。
 あるいは会社で一つの仕事を教えてもらうとするでしょ。仕事のやり方は尋かなきゃわからない。でもそれがなぜそうなのかを自分で考え、調べてわかれば、その先、別のことなのに尋かずにかえって人に教えられるようになるのです。といっても会社の場合はその人の個性なので、どちらでもお好きに。人間、長所も短所もトータルで1人です。
 ただ個性とはいえ、はっきし言って、そうでない人間は頼られないよ。頼られちゃ、うっとおしい、って人もたくさんいますけどね。
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