リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

論理の行為論的基礎(その5)

2023-04-15 13:33:47 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日は全国的に雨。雨だと買い物の用がなければ外に出たくはない、というと、春の花なんてすぐに盛りを過ぎてしまう。黄色く綺麗だったタンポポ野原も昨日久しぶりに見に行ったらすでに飛び去ったあと。昨日咲きかけてたツツジ群も、すぐに茶色くなっちゃいそうだ。
 
 今日はディズニーランド40周年だってさ。もう、かね。わたしゃ出来て3年くらいで行きましたが、ただのデパートの屋上、樹もなくコンクリーの照り返しでひたすら暑くて。子供が小さいのでダンボと恐竜汽車に乗ったくらいで。ダンボが200円で汽車が500円、多分。昔は乗り物は別枠だったかtら。そのうちパスポート制4500円になってこれが長く続くの。これが痛かったのね、他の遊園地。どこでも個別に乗ってるとすぐ4000円なんて超えちゃうから、それならディズニーランドのほうがいい、って。
 で、端からつぶれて独占企業になったところでおもむろに値段を上げる、と。もう9000円。マイクロソフトのようだ。資本家のやることはどこも同じ。そのうえ「並びたくなければカネを払え」って。驚いたもんだ。ハンディキャップ優先はどうなるのかしら? アメリカ民主主義なんか忘却の彼方だね。
 
 わたくし儀、気づいたら先週あたりで父ちゃんの死んだ歳を超えてしまいました。父ちゃんも隠居するところでしたから、まあそんなもんかな、と思いましたが、私もそんなもんかな。まあ。カネもない分私のほうが食生活がいいので多少延びるでしょうが。延びなきゃ栄養士は全部廃業。みなさまも中年すぎたらケーキはお預け。宴会は酒とサラダだけにするように。タンパク質? どうせふだん食べるじゃん。
 
 おや? 和歌山で岸田の演説が邪魔されたって。
 わたしゃ別に岸田は好きではないが、遊びで世間を渡ろうとするやつは大嫌いだ。おさわがせ回転寿司やろうとどこも違わねえ。
 厳罰で致し方なし。


 さて、本題。
 まだ引き続いている視点問題。あんまし書いてるとみんな逃げていくよね、この辺が潮時か、もう遅いか。
 で、前回述べました認識主体の『この方法が「社会事象という対象に備わった」形式論理と弁証法です。』なる件。なぜ、そんなものが認識対象に備わるのか。
 
1 形式論理

 問題は、われわれは「形式論理」や形式論理「学」に沿って思考しているわけではない、ということです。誰が付けたか形式論理。これは「表象論理」とでも名付けたほうがいい。
 生物にとって、思考的判断とは、第1に、「同一と差異」です。
 物体は既知のAと同じであるかのように感覚されるがどうか。リンゴとリンゴのようなナシとは、同一のモノか。 
 ついで第2に、感覚上違いがあるときに、結果機能的に同一とみなしうるか。
 リンゴのように甘く喉の渇きも収まるナシは、別ではあるが、ある意味、同一です。これは「同類」と脳内で指示し、同一枠におさめたい。 
 こうして、同一物、異物、一般のカテゴリーがセットされます。 
 
 ここで、しいていえば「同一」と「異物」だけは生物に先天的に備わった感覚の結果です。それだけに「方法」ではない。生物にとっての方法は、その異物が「同様」の位置に転化する機構です。撫でて同様に心地よい「同様の毛皮」、食べて「同様に」満足する「餌」、生物は対象を操作し、次の行動の規準を入手する。この過程全体が方法です。
 すなわち、その同一性の成立をめぐる構成こそが、世で「論理」と言われるものなのです。何をもって「同一」となるのか、それが本来の「定義(規定)」であり、これを同一たらしめる要因が「規定性」です。

 手近にある本から表現を取ると、宇野弘蔵「経済学方法論」の5ページに
「かかる経済原則の解明自身を経済学的研究の対象となすことは、商品経済を対象とする経済学の特殊の意義を抹殺するものといってよい」とあります。
 ここで、経済原則なるものが本当にあるのか、宇野の念頭にあるものは本当に経済原則と呼べるのか、ただの歴史上特殊な事例ではないのか、そもそも経済学は商品経済を対象としているのか、そんなことは誰が決めたのか、エトセトラエトセトラ。文章はその文が示す事象が、誰にとっても同一の規定をもっているのかどうか、持つといってよいのかどうか、持つというべきではないのかどうか、すべて、哺乳類生物一般、「私、子リスはこの丸いドングリのようなものを、ドングリの同一性をもって齧(かじ)ってよいのか」という疑問の解消過程と同様です。
 と同時に、「母リスはやめろというが、それは同一ではないためなのか、それとも同一なのに自分が食べたいからなのか」
 これがイデオロギーが排除される根拠です。同一性判断とイデオロギー排除は、常に生物の志向の結果です。

2 弁証法

 さて、話は変わるようですが、あるドングリのようなものはリスにとって、今日は食べられないが、川に落ちたそれは(アクが抜けて)1週間後食べられることがあります。母リスは平気で食べているのを見て、目のいい子リスは不思議に思います。人生不可解。同じはずのモノはどうして違うのか。この不可解さを解く者が第2の要因、「川に落ちた古い状態」です。この以前の状態と今の状態という2種の(現行の論理学者が矛盾と呼ぶ)出来事を取り持つものが弁証法です。
 ご覧になればわかるように、前記「 」内は1つの要因ではなく、まだ2通りの要因の複合した状態ですが、それが複合しているかどうかはさしあたりわからない。生物は2項対立しか取り扱えないのです。このため弁証法は哺乳類生物にとって普遍的な方法となるのです。

 「「方法」っていうけど、「同一と差異」のどこが方法だ?」
 それそのものの決定過程が方法の本体です。
 上記の本も、「経済学方法論」だのとわかったような題がついていますが、これはそもそも根本から違う。ある不動の概念があるものと仮定した人間(宇野)だけが勝手になすワザです。
 本当は、当該書で述べている「経済学の対象」や「段階論」の設置や「唯物史観」や価値論、恐慌論等の分化項目について、宇野弘蔵がそれらの「項目の性格を決めたときに」彼独自の「方法論」なるもの内容が決定されているのです。だから、本「方法論」なるものは、各項目をそう設定した宇野の意図の叙述に過ぎないのです。お疑いの方は確認されたい。
 
 さてそこで、この行為主体の資料は環境世界しかない。何が「正しい」って、知らない人間は知らないんだからしょうがない。
 そこで、市井の本物の「科学者」でなくとも、実証的な事実を探求する「学者」が必要なのです。まあイヤミですが、そのくらいは「市井の」人間のささやかな権利ではないかと。給料も印刷費もらってないし。
 
 なお、「矛盾律」,「排中律」などというものは、伝達の道具である言語に付随する、コトバの決まりごとに過ぎません。つまり、それらがないと、「一体お前の言うことはどっちなんだ、バカ野郎」という事態が生じ、会話が成り立たない、という事情です。 
 (いう必要もありませんが、世の中の自称「論理学」というものは、ただの定義の不十分さから生ずる混乱を面白がる子供の遊びごとです。)」

付) 推理

 さて、ついでに、論理の一種とされる、「推測法」について付記しておきましょう。
 ちなみに、上記のドングリの例は本当かどうか不明です。ニホンリスはオニグルミがあればあえてドングリを食べないようですが、しかしクルミがなければ我慢して食べる、と事実探索学者が述べます。一方、シイの実は人間でも食べられる。またアクが強くて食べられないナラの実等は粉にして水にさらせばヒトでも食べられる、と事実探索学者が述べています。かくて、推測ではありますが、上記の例は間違ってはいないのではないか、と考えられる。
 つまり、「類推」です。類推とはかように、同一性の適用拡大のことです。
 帰納法や演繹法などというものは、学者の遊びです。人間の生活に、例外のない事象などない。行為上の将来はすべて推測の域は出ない。生物の生活はこの同一性をめぐる思考からできているのです。


 で、まあ、こういうことをいうと、どこに書いてあったんだ? などという奴がいる。この隈、はばかりながらこのブログで他人様の諸理論などを使ったことなどない。全部、自前。他人をけなす時に引いてくる例を除いては。誰にだってそのために頭がついているのです。

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