リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「痛みの沈潜と風化」の実態

2024-03-23 17:13:27 | その他
 こんにちは。東京地方どうしちゃったのか、ずーっと寒い。ちょっと前には桜の開花は東京がいつも一番早い、なんていってたのに、蕾はかちんかちん。
 なんだけど、寒くても夜風は3月の匂い。雪が解けた関東山地の匂いなのだろうか。
 なお、今日は高知で一番咲きだって。 
 花より団子、今年はなんとかスーパーで牡丹餅を探して二日目に見つけて食べました。どうせニセモノの団子と思ったらちゃんと半殺しの中身が入ってました。おはぎはスーパー特売くらいの可愛いのでいいや。

 今日はちょっとだけニュース。
 新宿アルタ、来年2月で閉店て。「東京・新宿の待ち合わせスポットが営業を終了します。」(テレビ朝日)
 40年間待ち合わせスポット、って時代が違う。私らん時は待ち合わせは断然紀伊国屋前。昔はなんかしら店頭出店が出てたから暇つぶしできるし。アルタはわたしゃ2回くらい。場所じたい狭いから分かりやすいんだけどね。知らないうちに時代が飛び越えて過ぎ去ってしまったか、という感じ。でも、アルタは「新時代」の象徴。アルタに新宿騒乱は似合わない。

 「“飛ばないバット”狂騒曲のウラ側で…青森山田の2選手が異例の「木製バット」を選んだワケは?」( Number Web)
 これが感心。ちょっと長い。
「、、、吉川が報道陣から「新基準のバットに変わり、初めて木製バットを使った選手ということについてどう思うか?」と尋ねられた時、、、。
 吉川が反射的に答える。
「珍しいとは思いますけど、自分としては今までと変わらず、勝利に繋がるバッティングをすることが一番だと思っているんで」」
 ほう、こうした言語化が以後も生きるんだよね。野球なんてどうでもいいけど、(中身に寄らずとにかく)自分のイデオロギーの下で自分を生きられた、という経験が大切。
 それは自分にとって嘘じゃないから。SNSでなんか言われて泣くような生活は、けしてやってこない。
 口の先で周囲をごまかして生きてるっていう奴は、心の底まで憐れだけどね。
 
 というわけで、本日のお題は、良心的な高校生への倫理の授業。
 いや、現実には高校生にはこんなこといわないけどね、現実をいえば、こんなブログ、引っくり返っても高校生来ないし。だから安心して本当のことを言ってしまおう。
 
 世の中には良心的な人はいらっしゃいます。「彼らも私も同じ人間」という志向を持つ方たちのことです。とくに、アフリカやその他の後進諸国についての本を眺めていると何人も出ていらっしゃって、内発的開発論とかね、そういう研究者たちが集まって作る本もある。あるいは、公務員の外交官の手記なんかも、モラハラでも安心して読める。誰らがどうとは言いませんが。
 さてところで、そうした「平等主義的な」良心が正しいかといえば、人間の世ではそうではないから不思議。
 別に不思議じゃないか。つまり、「彼らも私と一緒だ、私たちと一緒だ」、という地点からは、「実は彼らに特有の状況」を変化させるべき努力は生まれない。確かに同情に満ち満ちてはいるが、研究者は「現地の一般人を支持することに腐心」し「外交官は自分の出世コースを歩む」。
 ああ、イライラする優柔不断。
 
 なんて指摘をするほうがいやな奴だね。
 しかし、世界は、かえって、不平等主義者とそれに歯向かう手段を選ばない反逆者の2者によって、結果のみ「平等主義的に」変更される。
 良心的な人にとっては哀しいことです。
 
 が、しかし、現実は哀しくなんかない。そんな感情の余裕があるはずもない。だってその変化の過程は痛みの連続だもの。「そんな過程に耐えろ」という偉そうな発言が許される人間などいやしない。
 第三者の言にかかわらず、世界の行く末は差別する人間と、差別を許さない人間との間で闘われる。
 
 でははじめに「痛み」を感じた良心的な者はどこへ行く?
 人間はその気持ちを自分の行為過程に繰り入れない限りは、「昔そうだったな、俺は知ってるよ」という認知のまま、第三者のレールをゆくしかない。繰り入れない人間が歩む過程は、どんな人間でも歩む、その同じ過程に過ぎない。
 嘘だ? ほんとに嘘か?
 冗談じゃない。長生きした人間をバカにするな。
 隈はそう答えるしかない。
 ただ1点、違うといえば、痛みを感じた良心は、その時点で凍結され、いつでも自分の中で戻っていける、という「美しい誤解」をもちうる。
 
 と、これは、ただの事実。
 ここで話は研究主体Aに移ります。
 
 ここで仮に、自分の家族や親族が、困難な目にあったとしよう。ここでは研究主体Aは、慌てふためいて、彼らを何とかしようとする以外に取る手立てはない。
 そりゃ理屈じゃないし。自分のはらからだから。だけどそのときの研究主体Aは「研究主体」などではない。 
 対象が自分や自分の家族の時の日常行為であれば各一瞬一瞬が選択の嵐。仲間だって裏切り者ばかりじゃない、かけがえのない仲間はいるさ。
 
 問題は次だ。 
 ところが自分の次の動作をつかさどるホルモンにかかわらない観念作業はそうではない。
 つまり、ウクライナやガザと、それに直面している私たちの関係です。
 これは、どうきれいごとをいおうが、2つの道のどちらかを選択するしかない。
 仲間のような人々を助けるか。
 仲間のような人々を無視して研究に専念するか。
 きれいごとを除いて2つしかない。
 この現実について、そこに直面してない人間がコメントをしうることはない。昨今の観念世界で生きている人間が何を言おうと、「脱構築」というやつさ、世界というのは2項対立なのだよ。なぜか。自分が次にとる行為はひとつしかないから。だから「この世界」の構成者も2つに分かれるのだよ。自分が選んだ人々と選ばなかった人々と。
 きれいごとをいったところで、きれいごとを遂行できるのは他の気持ちがなかっただけのこと。
 ああ、イライラする優柔不断。

 さてそこで、現状、アフリカその他の現状を具体的に読まされては、そりゃあ「敢えて(あえて)」無視しようと努力するしかない。研究主体Aに彼らを助けることなどできやしない。もちろんこの事態を、研究主体Aが研究主体として彼らと生活をすることはできない、と言ってもいい。
 庶民の良心を無視する私をスターリニストと言えば言え。 
 社会科学で研究主体を待つものは、不平等主義者とそれに歯向かう手段を選ばない反逆者の2者によって構成される平等のみ。
 
 、、、ほんと、高校生から変わらない隈。

 そうそう、朝日新聞の投書だったと思うけれど、「私は子供の時に人は孤独と言い聞かされていたので、他人にどんなことを言われても平気だった(趣旨)」というのがあって。
 ああ、私もそうかも、と思いました。ほんと、子どものときに(中也挫折や安保挫折を社会で待ってる通例と思ってて、)挫折なんかするのが当然と思ってたからね。おかげさまで挫折が100倍になって自分の富になった人生でしたよ、カネにはならんけど。
 
 さて、最後っ屁のように書けば、
 朝日新聞の鷲田清一のコラムが選んだ今日の言葉

「命の重さはみんな同じはずなのに、この世界はフェアにはできていない。世界中が自分たちを攻撃している。」
 (ガザの病院スタッフ)

 そうだよ、忘れてほしくないのは、世界、つまり自分の自称「仲間」なる者たちも自分たちを攻撃している、ということだ。ハマス? イスラム勢力? 誰一人攻撃しない者はいない。
 これは病院スタッフに言ってるのではないよ。病院スタッフに同情した方々に言っている。
 まあ普通ならこういう同情もない書き方はしないんだけどね、いくら言っても分からない方の多さといったら。てゆうか、このところいらいら。

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