クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<モーツァルトとサリエリ>

2006年11月22日 | 作品を語る
R=コルサコフ・オペラが作曲したオペラを語るのは、今回が一応最終回。という訳で、ここでちょっと異色の作品を採りあげてみることにしたい。演奏時間約40分前後の短編歌劇<モーツァルトとサリエリ>Op48 (1897年)である。2人の登場人物による対話と小編成オーケストラによる伴奏、そして終わりの方で少しだけ出て来る合唱。全体にわたって質朴な響きが一貫する、極めて独特な雰囲気を持った心理劇だ。映画『アマデウス』のルーツとも言えそうなこの短い歌劇の原作は、アレクサンドル・プーシキンが1830年に書き上げたものであるとのこと。

―歌劇<モーツァルトとサリエリ>(全1幕)の概要

〔 第1場 〕

サリエリ(B)の独白。「この世に正義はないと人は言うが、天上にだって正義はない。私は幼い頃から音楽を愛し、長じてからは音楽一筋に打ち込み、それなりの地位も名声も得てきた。幸福だった。嫉妬などという感情は、私には無縁だった。しかし、今は違う。音楽への愛や大いなる労苦に対してではなく、あのたわけ者の頭上に天分が与えられるとは、天上に正義があると言えるのか。ああ、モーツァルト!モーツァルト」。

そこへ、モーツァルト(T)が登場。居酒屋で<ケルビーノのアリア>を弾いていたという、盲目の老ヴァイオリン弾きを一緒に連れてきている。モーツァルトに乞われて、老人はサリエリの前で<ツェルリーナのアリア>を一節弾く。下手くそな演奏。モーツァルトはケラケラ笑って楽しむが、サリエリは、「こんな物を聴いて、笑えるのか」と苦い顔。やがて2人だけになってから、モーツァルトは、「最近思い浮かんだ曲だよ」と言って、ピアノを弾き始める。サリエリはその音楽に深く感動しつつ、ため息混じりにつぶやく。「これだけの作品を持って来ながら、居酒屋の前であんなヴァイオリンに耳を傾けていたとは・・。君は全く、君自身にふさわしくない男だ」。

2人はそれから、一緒に食事をしに行こうという話になる。モーツァルトが、「家の用事を先に片付けてくるよ」と去った後、再びサリエリの独白。「私は実行しなければならない。彼の行く手を阻むために、私は選ばれたのだ。そうしないと、皆が破滅する。あのモーツァルトが長生きして、さらに高みに向かったとして、それが何になる。彼の後継者は、いないのだ。彼が去った後、芸術は衰勢に向かう。あの天上の妙なる歌で、彼は我々に天の目覚めを与えた。塵芥(ちりあくた)の我々に虚しい願望を掻き立てたまま、彼は飛び去ってしまうのだ。ああ、飛び去るがよい。それも、早ければ早いほどよい」。毒薬を取り出すサリエリ。

〔 第2場 〕

『小フーガ』の短い間奏曲の後、舞台は料理屋。「浮かない顔だが・・」とサリエリが水を向けると、モーツァルトは最近起こった出来事を語り始める。「黒い服の男が来て、<レクイエム>の作曲を依頼してきた。そしてそれ以来、いつもその男の影が僕につきまとうんだ。今だって、そうさ・・」。モーツァルトがそんな話をしている隙を見て、サリエリはグラスに毒を入れる。何も気付かずに、それを飲み干すモーツァルト。

やがて若き天才はピアノのところに行き、<レクイエム>の冒頭部分を弾き始める。感極まって涙をボロボロ流すサリエリ。「苦しくも快い涙だ。つらい務めを終えた時のように、病から癒えたように、重荷から解放されたように感じる。モーツァルト、続けてくれ。私の心を楽の音で満たしてくれ」。

「すべての人が、この音楽の和声の魅力を感じてくれたらなあ。いや、ダメだ。そうなったら、誰も世俗の苦労に関わろうとはしなくなる。世の中が成り立たない」とつぶやいた後、モーツァルトは具合が悪くなってきたと言って去って行く。残ったサリエリの、最後の独白。「さらば、モーツァルト。永い眠りに!・・・天才と犯罪は無縁か?いや、違う。あのミケランジェロはどうなんだ」。イエスの磔刑(たっけい)を描くために、モデルを本当に磔(はりつけ)にしたという伝説のあったルネサンスの巨匠にサリエリが言及するところで、劇は静かに幕を閉じる。

―歌劇<モーツァルトとサリエリ>のCD

<モーツァルトとサリエリ>は小規模で上演しやすい作品のためか、R=コルサコフのオペラの中では比較的演奏回数に恵まれている物らしい。現在いくつぐらいの録音が存在するのかは分からないが、とりあえず私が聴いて知っているのは、以下の3種である。

1.サムエル・サモスド指揮ボリショイ劇場管、他 (1947年)
サリエリ : アレクサンドル・ピロゴフ(B)
モーツァルト : セルゲイ・レメシェフ(T)

2.サムエル・サモスド指揮モスクワ国立放送管、他 (1951年)
サリエリ : マルク・レイゼン(B)
モーツァルト : イワン・コズロフスキー(T)

3.マレク・ヤノフスキ指揮ドレスデン国立管、他 (1980年) 
サリエリ : テオ・アダム(B‐Bar)
モーツァルト : ペーター・シュライアー(T)

上記の1と2は、いわゆるボリショイ黄金期の名歌手たちによる記録である。ピロゴフもレイゼンも、ともに偉大なボリス歌手として名を馳せた人たちだ。比べてみるなら、ピロゴフは劇的でパワフルな歌い方をし、レイゼンは重く深みのある声でじわりと貫禄をにじませるという感じだった。この録音にも、それぞれの個性がよく出ている。両者それぞれのスタイルで、迫力がある。

レメシェフとコズロフスキーの2人も、当時のボリショイ・オペラを代表するリリック・テナーだった。敢えて比較を試みるなら、レメシェフは<エフゲニ・オネーギン>のレンスキーを一番の得意役とし、コズロフスキーは<ボリス・ゴドゥノフ>のユロージヴィで絶対無二の評価を得ていた。ここでの両者の演唱も、ちょうどその違いを実感させるようなものになっている。しかし、いずれも西ヨーロッパ的な美感では捉えがたい世界を生み出しているという点では、共通している。

一方、日本のオペラ・ファンにもすっかりお馴染みのテオ・アダムとペーター・シュライアーが共演した3のヤノフスキ盤は、鳴っている音自体の美しさを言えば、上記の1と2をはるかに凌ぐ名演である。と言っても、話はそう単純ではない。

上記2種のサモスド盤では聴くことの出来ない美しい音、充実したオーケストラの響きを背景に、まずアダムがよく彫琢された見事なサリエリを歌い出す。いわゆるデモニッシュな迫力はないものの、端正で力強い名唱だ。しかし、シュライアーのモーツァルト像には、うーん、どうかな、という感じがする。思慮分別をわきまえた、知性派の好青年モーツァルト。例えば、<レクイエム>と黒い服の男について彼が語る場面など、まるで<マタイ>のエヴァンゲリストみたいな格調の高さ。「すごく巧くて立派なんだけど、この役ってそうなのかなあ」と思ってしまう。少なくとも、サリエリが言うところの、“あのたわけ者”には全然聞こえない。

それより問題なのは、これがドイツ語版で演奏されているということだろう。R=コルサコフが回想の中で、「ロシア語のセリフの抑揚に合った旋律線が何よりも先行して作られ、手の込んだ伴奏があとに加わった」と語っている通り、この作品のキモは、ロシア語に密着したメロディ線にある。ドイツ語に直してしまったら、その本質的な価値が消えてしまうわけである。演奏の美しさは抜群なのだが・・。

―最後に、このオペラの侮れない一面を伝える歴史的大歌手の言葉を一つ。初演こそパッとしなかったこのエソテリック(?)な作品は、フョードル・シャリアピンが二役を歌い、ラフマニノフがピアノ伴奏を受け持った上演によって大きな評判となった。シャリアピンいわく、「サリエリという役は、ボリスよりも演じるのが難しい」。どうもこのオペラ、よそ者にはちょっと想像のつかない奥深さがあるようだ。

―次回から、R=コルサコフがオペラの編曲者として残した業績を見ていきたいと思う。

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