クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

アリアドネ

2005年02月27日 | エトセトラ
前回話題にしたシモン・ボッカネグラ(Simon Boccanegra)の最後のaからアルファベットのしりとりをして、今回はギリシャ神話のアリアドネ(Ariadne)について少し語ってみたい。

イタリア語でアリアンナ、フランス語でアリアーヌと発音されるこの女性にゆかりのクラシック音楽作品というと、ちょっと調べただけでもかなりの数が見つかる。が、無名な作品の方がずっと多いようだ。一般的にはR・シュトラウスの歌劇<ナクソス島のアリアドネ>、もともと歌劇として作曲されていた楽譜が散逸して、今はマドリガーレの形で歌われるのが普通になったモンテヴェルディの<アリアンナの嘆き>、そしてルーセルのバレエ音楽<バッカスとアリアーヌ>といったあたりが、代表的なものと言っていいんじゃないかと思う。

さて、アリアドネを語るには、何よりもアテナイの英雄テセウスの武勇伝から始める必要がある。彼が活躍し始めた頃、アテナイはクレタの王から毎年七人の少年少女を貢ぐよう命じられていて、それに従っていた。かわいそうな若者たちは、クレタに住むミノタウロス(=男性の身体に牛の頭が乗っかっている怪物)の生贄にされたのである。そんなけしからん化け物はやっつけてしまおうと、テセウスは七人の人身御供の一人として紛れ込み、クレタに渡る。

クレタの王ミノスには美しい娘がいて、名をアリアドネといった。彼女はテセウスの姿を見るや、一目惚れ。彼に力を貸そうと、決意する。怪物ミノタウロスは、ラビュリントスの中に棲んでいる。ラビュリントスというのは、クレタ王ミノスの依頼を受けて、名工ダイダロスが作り上げた「入ったら絶対に出て来られない迷路」である。(※英語のlabyrinthの語源。ついでながら、rhythmやsymphonyのように、つづりの途中にyの文字が出てくるような英単語はだいたい、ギリシャ語源と考えていただいてよろしいかと思う。)生贄の男女はその迷路に入れられてさまよった挙句、怪物の餌食になったのだった。

テセウスを助けたいアリアドネは、迷路から出る方法をダイダロスから教わって、次のようにテセウスに進言した。「ミノタウロスが棲む迷宮にそのまま入ったら、二度と出て来られません。入り口に麻糸の端を結びつけておいて、糸球をほぐしながら奥へ進んで下さい。その糸をたぐれば、また入り口へ戻って来られます」。そして彼女は結婚の約束を取り交わしてから、麻糸の球をテセウスに渡したのであった。おかげで、テセウスは迷路の中で首尾よく怪物を退治してから糸をたぐり、全く迷うことなく無事に帰還したのである。めでたし、めでたし。

ところが、この後が問題なのだ。テセウスは、妻とするべきアリアドネを連れてクレタを出たまではいいものの、途中でナクソス島に寄港した時、何故かそこに彼女を置き去りにしたまま出発してしまうのである。(※先に例示したモンテヴェルディの<アリアンナの嘆き>は、その置き去りにされたアリアドネの絶望的な心情を歌ったものである。)

テセウスがアリアドネを置いてけぼりにした理由は、神話の中では語られていないようだ。その結果、後世の人々があれこれと推論を立てることとなった。他の女性に英雄の気が移ってしまったのだろうとか、ディオニュソス(=バッカス)がテセウスの夢に現れて「アリアドネから手を引け」と迫ったらしいとか、実はアリアドネはそこで病死してしまったのだとか、あるいはディオニュソスが先に彼女を奪ってしまったんだとか、諸説ふんぷんである。一般的には、ディオニュソスが先に奪ったというのでなくて、置き去りにされて嘆いていたアリアドネを彼が拾ったとする説の方が支持されているようだ。いずれにしても実際のところは詳らかでないようだが、帰還したテセウスの方にも悲しいことが起こる。帰国の際に「無事に帰還できた時は、白い帆を掲げて港に入る」という約束を父親としていたにもかかわらず、そのことを忘れて黒い帆のまま入港したために、テセウスの父親は息子が死んだものと勘違いし、悲しみのあまり海に身を投げて自殺してしまうのである。(※ちなみに、その哀れな父の名はアイゲウス。エーゲ海という海の名は、この父親の名前に由来する。)

さて、R・シュトラウスの歌劇<ナクソス島のアリアドネ>だが、正直なところ、私はこの作品にそれほどのシンパシーを感じていないので、これまでに聴いてきた3種類の全曲盤についても、ありきたりな感想文を書くにとどまりそうである。録音年代順に並べると、カラヤン&フィルハーモニア管によるモノラルEMI盤(※シュワルツコップ、ゼーフリート、シュトライヒ、他)、ケンペ&ドレスデン国立管によるEMI盤(※ヤノヴィッツ、ツィリス=ガラ、ゲッツィ、他)、そしてベーム&バイエルン放送響によるグラモフォン盤(※ヒレブレヒト、トロヤノス、グリスト、他)である。

指揮者が一番シュトラウスらしいサウンドを引き出しているのはやはり、ベーム盤かなと思う。しかし、このベーム盤は、歌手陣にかなり遜色がある。トロヤノスの作曲家やグリストのツェルビネッタあたりは、それぞれにまあまあいい線いってるんじゃないかと思ったが、ヒレブレヒトのアリアドネがいけない。ひどくめり込んでいる。劇中劇で歌われるアリアドネの聴かせどころ、「すべてが清らかな国が」など、声のコントロールも歌の形もまるでなっていないし、最後のバッカスとの二重唱でも、ジェス・トーマスが素晴らしいバッカス(※少なくともここに挙げた3種の中では最高)を演じてくれているだけに、よけいにそのダメさ加減が目立ってしまって痛々しい。コンコーネから、やり直し!

LP発売時にレコード・アカデミー賞を取ったケンペ盤は、例えて言えば“国立大学受験生型”の名演だ。指揮はしっかりしているし、歌手たちも粒ぞろいで、多少の出来の差はあるものの、弱点になってめり込んでいるような人がいない。つまり、苦手科目がなく、まんべんなく偏差値が高いのである。一般的には、これがファースト・チョイスかなあと思う。ケンペの指揮というのはとにかく、ケレン味がなくてすっきり清潔だ。ウィーン・フィルとの<ローエングリン>(EMI)も、清潔感のある響きと明晰なフレージングが印象に残るものだった。スメタナの<売られた花嫁>(EMI)も比較的素朴なサウンドを使い、きびきびとした音楽を作っていた。この<アリアドネ>も、特に室内楽的な精妙な響きを聞かせる部分で、ケンペの真骨頂が発揮されているという感じがする。これを選んで損をするということは、とりあえずないだろう。

しかし、ここに挙げた3種の中で一番聴かせ上手なのは、若きカラヤンだ。正直言って、私はこの指揮者はあまり好きではないのだが、常に一流の歌手陣を揃えることの出来た彼のオペラ録音というのは、その演奏に対する好き嫌いは別にして、どうしても見過ごせない物が数多く存在する。この<アリアドネ>は、若き日のカラヤンを代表する名演の一つに数えてよいものだろう。何でも器用にこなしたカラヤンだが、この人はやはり、R・シュトラウスの音楽に一番合っていたんじゃないかという気がする。歌手陣もよく、ゼーフリートの作曲家もシュトライヒのツェルビネッタも、おそらく当時望み得た最良の歌唱を披露してくれている。声がみずみずしかった頃のシュワルツコップが歌うアリアドネも、大変見事である。しかし何と言っても、カラヤンが巧い。管弦楽の響きは厚みがあって引き締まったものだが、実によく歌う。メリハリの効いた表情や、自在にして柔軟なテンポやディナーミク、そういったものが劇の展開を雄弁に物語る。ケンペの実直な指揮ぶりには幾分退屈する場面もあった私だが、カラヤン盤では殆ど退屈しなかった。それどころか、全曲を締めくくるラストの数分間など、その見事な盛り上がりに深く感じ入ってしまい、胸が熱くなったほどである。モノラル録音ではいやだという人や、徹底的にカラヤンが嫌いな人でもなければ、これを第一に選んでも失敗はないと思う。

次回は、アリアドネ(Ariadne)の最後のeをアルファベットでしりとりして、日本のオペラ受容史を語る上で絶対に忘れることの出来ない、“あの一声”について語ってみたいと思う。

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