前回の「ファウストはかせ」の「せ」をしりとりして、今回はギリシャ神話のセメレに話を持っていってみたいのだが、このセメレという名前を聞いて、「ああ、ヘンデルのあれね」なんてすぐに思いついて、その一節でも口ずさんだりしちゃう人は、相当クラシックにはまり込んでいる人じゃないかと思う。あるいは、専門的に声楽をなさっている方か。
正直に言ってしまうが、私はヘンデルのオペラやオラトリオ等は苦手である。ファンの方には申し訳ないが、とにかくつまらないのである。若い頃、「クラシック音楽作品を何から何まで聴き尽くしてやるぞ」などという途方もない志を立てて、FMのエアチェックに勤しんだり、LPを中古で買ったり、人からテープにとらせてもらったりと、まあずいぶんと励んだ時期が長く続いたのだが、ヘンデルのオペラについては、当時よくNHK―FMで全曲上演ライヴ等が紹介されていたので、テープにとっては後で聴くというようなことをしていた。
しかし、つまらなかった!どの作品も、聴きとおすのが苦痛だった。従って、当時聴いた相当数の曲、今は何一つ覚えていないという体たらくである。今回はそれゆえ、ヘンデル作品の話ではなくギリシャ神話へのアプローチで、この数奇な運命をたどった女性を語ってみたいと思う。
大神ゼウスがたくさんの女性たちと次々に交わって子供を産ませていったのはよく知られた話だし、また彼の妻ヘラの激しい嫉妬もよく知られたものだが、セメレという女性も、愛と嫉妬のドラマに巻き込まれた一人であった。
ゼウスの愛を受けて身ごもったセメレだが、それは例によってヘラの知るところとなり、彼女は策略にはめられることになる。これがちょうどワグナーの<ローエングリン>のストーリーよろしく、乳母に化けたヘラがセメレに対して、「あなたの好きな男性が何者なのか、騙されないようにちゃんと確かめた方がいいですよ」と言葉巧みに持ちかけ、セメレの心に疑いの念を持たせるわけである。
<ローエングリン>の場合は、白鳥の騎士がエルザの問いに答えて正体を明かし、去っていった。が、セメレにせがまれてゼウスが正体を明かした時には、もっと悲惨なことが起こった。つまり、生身の人間であるセメレが大神ゼウスの姿をじかに見た瞬間、彼女は神が発する灼熱の光(※一説では、ゼウスの稲妻)に焼き尽くされて灰になってしまったのである。傷心のゼウスが灰の中から拾い出した胎児こそ、あのディオニュソス(=バッカス)である。ゼウスはこの胎児を、月が満ちたら甦るようにと、再生を意味するDia_nysosと名づけ、自らの太ももに縫いこんだという。
その後、月が満ちてディオニュソスは産まれ出るのだが、ヘラのしつこさは尋常でなく、それからも執拗に彼への攻撃が続く。しかし、ディオニュソスは周知の通り、大きな力を持つ神に成長する。やがて彼は黄泉の国へ下りて行き、そこの妃であるペルセポネに抗いがたい魅惑の力を持つ花束を贈り、ついに死せる母セメレを生ける者の世界へ連れ戻すことに成功するのである。その後ディオニュソスの請願を聞き入れ、ゼウスはセメレを女神の一人として迎え入れたのであった。
音楽家たちに創作の霊感を与えた実績としては、セメレよりもやはり息子のディオニュソス(=バッカス)の方が圧倒的に大きなものがあるのは言うまでもないだろう。アポロ的な古典美に対するディオニュソス的な野放図とか、芸術論の概念としても重要な用語として使われてきたし、バッカスの饗宴を意味する「バッカナール」というタイトルだけをとっても、一体いくつの音楽作品が書かれたことだろう。
さて、ギリシャ語のnysosは 同じく「誕生」を意味するフランス語のnaissanceに似ているような気がするが、ひょとしたらこの二つは同根なのかもしれない。「再生」を意味するフランス語としてrenaissance(ルネサンス)があることはよく知られているが、次回はそのルネサンスとディオニュソス(=バッカス)をリンクさせて語ってみたい。
正直に言ってしまうが、私はヘンデルのオペラやオラトリオ等は苦手である。ファンの方には申し訳ないが、とにかくつまらないのである。若い頃、「クラシック音楽作品を何から何まで聴き尽くしてやるぞ」などという途方もない志を立てて、FMのエアチェックに勤しんだり、LPを中古で買ったり、人からテープにとらせてもらったりと、まあずいぶんと励んだ時期が長く続いたのだが、ヘンデルのオペラについては、当時よくNHK―FMで全曲上演ライヴ等が紹介されていたので、テープにとっては後で聴くというようなことをしていた。
しかし、つまらなかった!どの作品も、聴きとおすのが苦痛だった。従って、当時聴いた相当数の曲、今は何一つ覚えていないという体たらくである。今回はそれゆえ、ヘンデル作品の話ではなくギリシャ神話へのアプローチで、この数奇な運命をたどった女性を語ってみたいと思う。
大神ゼウスがたくさんの女性たちと次々に交わって子供を産ませていったのはよく知られた話だし、また彼の妻ヘラの激しい嫉妬もよく知られたものだが、セメレという女性も、愛と嫉妬のドラマに巻き込まれた一人であった。
ゼウスの愛を受けて身ごもったセメレだが、それは例によってヘラの知るところとなり、彼女は策略にはめられることになる。これがちょうどワグナーの<ローエングリン>のストーリーよろしく、乳母に化けたヘラがセメレに対して、「あなたの好きな男性が何者なのか、騙されないようにちゃんと確かめた方がいいですよ」と言葉巧みに持ちかけ、セメレの心に疑いの念を持たせるわけである。
<ローエングリン>の場合は、白鳥の騎士がエルザの問いに答えて正体を明かし、去っていった。が、セメレにせがまれてゼウスが正体を明かした時には、もっと悲惨なことが起こった。つまり、生身の人間であるセメレが大神ゼウスの姿をじかに見た瞬間、彼女は神が発する灼熱の光(※一説では、ゼウスの稲妻)に焼き尽くされて灰になってしまったのである。傷心のゼウスが灰の中から拾い出した胎児こそ、あのディオニュソス(=バッカス)である。ゼウスはこの胎児を、月が満ちたら甦るようにと、再生を意味するDia_nysosと名づけ、自らの太ももに縫いこんだという。
その後、月が満ちてディオニュソスは産まれ出るのだが、ヘラのしつこさは尋常でなく、それからも執拗に彼への攻撃が続く。しかし、ディオニュソスは周知の通り、大きな力を持つ神に成長する。やがて彼は黄泉の国へ下りて行き、そこの妃であるペルセポネに抗いがたい魅惑の力を持つ花束を贈り、ついに死せる母セメレを生ける者の世界へ連れ戻すことに成功するのである。その後ディオニュソスの請願を聞き入れ、ゼウスはセメレを女神の一人として迎え入れたのであった。
音楽家たちに創作の霊感を与えた実績としては、セメレよりもやはり息子のディオニュソス(=バッカス)の方が圧倒的に大きなものがあるのは言うまでもないだろう。アポロ的な古典美に対するディオニュソス的な野放図とか、芸術論の概念としても重要な用語として使われてきたし、バッカスの饗宴を意味する「バッカナール」というタイトルだけをとっても、一体いくつの音楽作品が書かれたことだろう。
さて、ギリシャ語のnysosは 同じく「誕生」を意味するフランス語のnaissanceに似ているような気がするが、ひょとしたらこの二つは同根なのかもしれない。「再生」を意味するフランス語としてrenaissance(ルネサンス)があることはよく知られているが、次回はそのルネサンスとディオニュソス(=バッカス)をリンクさせて語ってみたい。