goo

「竹下村誌稿」を読む 136 質侶庄 23

(新緑の静岡城北公園)

午後の駿河古文書会。少し早く出て、南部生涯学習センターに、第一回の解読資料を届けた。お昼は、心地好い天気の下、城北公園のベンチで、昼食に持参のおむすびを食べた。城北公園のヒトツバタゴも、5月初旬の花期も終り、新緑の季節に突入している。

50年前、ここは大学の構内で、古い学舎で日々講義を受けたはずだが、ほとんど記憶に残っていない。覚えているのは、具がほとんど入っていない、しょっぱいだけの味噌汁が、どんぶりによそわれて出た、学生食堂のことや、その食堂二階の畳敷の大部屋に入り浸り、日夜、碁を打っていたことぐらいであろうか。

図書館で、金谷宿大学の歴史の教授、ST先生に会う。早速、関口隆吉の歌の解読を頼まれた。デジカメに納めて持ち帰る。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

按ずるに、法昌院記に、開基法昌院殿補安宗忠大居士、明応五年(1496)九月十日とあるを見るも、河井氏が同院を開基したりし如くなれば、或るは同氏が大代に居住せしと云うことも、強(あなが)ち架空の説にも非ざるが如し。兎に角、この砦は今川氏に領属せしものなるべければ、武田氏乱入の際、火を放ちてこれを攻め陥したりと云う。今は白山神社の社域となりて、面影を存せずといえども、砦の礎石は依然として存し、三百五十年の昔を物語るものなり。

その付近に厩平と云う地名あるは、この時軍馬を繋ぎたる跡なりと云う。この砦は八光山の中腹にありて、大代に属し、その背面は高熊、福用に接続す。掛川誌福用村の条に、
※ 厩平(うまだいら)- 八高山の中腹に現在「馬王平(まおうだいら)」という場所があるが、そのことか。

八光山或るは白光、八高、また八講、に作る。村の西北にあり。峰に至る六十町。榛原、佐野両郡に跨(またが)り、粟岳、大悲山より稍(やや)高くして大なり。この山、半面は高熊村に属す。編年集成云う、安倍家伝に、大蔵光真を神君より遠駿の界に砦を設けて籠り置かれしが、甲州方の八講山の砦を抜きてこれに移るとあり。この砦の跡詳らかならず。
※ 粟岳、大悲山 - 粟ヶ岳(海抜532m)と大尾山(海抜661m)。ちなみに八高山は海抜832メートルである。

とありて、砦のこと詳らかならずといえども、思うに同書は専ら掛川領内の事を書きたるものなれば、他領なる大代に亘らざりしものなるべしといえども、八光、八向、国音同じければ、或るは思い当たる節なきに非ず。
※ 国音(こくおん)- 日本独特の漢字のよみ。和訓。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 135 質侶庄 22

(散歩道のマーガレット)

午後、掛川古文書講座に出席した。今年度、初回の講座である。数えてみれば、参加し始めて、今年で10年目になる。この講座が始まったのはそれより2年早くて、今年で12年目だと紹介があった。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

その後、この城のこと知るに由なきも、郡誌に新編駿河風土記を引きて、鶴見氏歿落後に起こりたる記事あるを見れば、本城は一度、武田氏に属せしことありしものゝ如し。曰く、

三浦氏 伝云う、当院(大長村伊太静居寺)前住、隨天順和和尚は生国遠江国志戸呂郷の武人平馬と云う者の子なり。父は鶴見因幡守某の家長たりしが、永禄中(1558~1570)、平馬、武田氏のために籍没せられけるより、順(和)、常に臍を噛み、潜(ひそか)に郷人三浦三四郎為明をはじめ、浅原、佐野、森平、板倉、望月など、かれこれ都合十人ばかり密策して、浜松(家康)に通じ、武田氏を不意を計りて素懐を果さんと計りしに訴人の者ありて、謀事(はかりごと)露顕に及ぶ。故に順(和)走りて浜松に至らんとして、途中日坂に於いて追捕士のために生け捕られ、三浦為明と同じく面縛して甲州に曳かれ斬罪せらる、云々。
※ 牌(はい)- 位牌。
※ 籍没(せきぼつ)- 犯罪者の財産を官府が没収すること。
※ 臍を噛む(ほぞをかむ)- ひどく後悔すること。どうにもならないことを悔やむことのたとえ。
※ 密策(みっさく)- 秘密のはかりごと。
※ 素懐(そかい)- かねてからの願い。素願。
※ 追捕(ついぶ)- 賊や罪人などを追いかけて捕らえること。
※ 面縛(めんばく)- 両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらすこと。
※ 斬罪(ざんざい)- 首を切り落とす刑罰。打ち首。


さて、前記河井宗忠は、鶴見氏と相拮抗(きっこう)し、遂にその襲撃する所となる。相伝う、河井氏初め庄内大代に住し、龍頭山安艱寺(夢想国師の開山にして応永の名ある金鼓を保存す)を廃して居城となし、八光山の砦と称し、その代寺として同所に法昌院を創立したり。然るに、鶴見氏横岡に移住し、城地相接するに及びて確執あり。因りて河井氏は松葉城に転住せしものなりと云うといえども、考うべき徴証を見出さず。
※ 確執(かくしつ)- 互いに自分の意見を強く主張して譲らないこと。また、そのために生じる不和。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 134 質侶庄 21

(庭の松に着くセッコク)

亡くなったWK氏が、我が家の松に着けてくれたセッコクが、今年も花を咲かせた。松の幹をぐるりと巻いて、随分大きな株に増えて、花の数も半端ではない。WK氏が亡くなってからも、もう10年ほど経つ。おそらく自分が生きている内は、毎年この季節にセッコクの花を見て、WK氏を思い出すだろう。果たして、WK氏に、そんな思惑があったのかどうかは、分らないが、年に一度はWK氏のことを思い出す。

夕方、掛川のO氏のお通夜に行った。掛川の娘の嫁ぎ先の叔父さんに当る人で、養鶏場を経営されていた。たくさんの卵を頂いたこともある。享年69歳と聞き、自分より若かったのだと知る。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

かくて、応仁以後の本庄は、前に述べたるが如く、一旦寺家を離れて、今川氏に帰したるものなるべければ、或るは云う、鶴見氏は当時今川氏の被官として、本庄を領せしものゝ如しと。されど疑いなき能わず。鶴見氏は今川氏の被官たるが如き形跡の存せるを認めず。而も、同じ今川氏の被官たる河井氏を襲撃するが如きこと、なかるべき筈なり。この辺の消息、伝わらざるのみならず、鶴見氏の戦没せし年代、史実考うべからずといえども、掛川誌、鶴見氏落城の条に、
※ 被官(ひかん)- 武家の家臣。

今川家の時、大井川の東、相賀村に偽旗を張り、奇兵を長者原より下して、この城を陥したりと云い伝う。
※ 奇兵(きへい)- 敵の不意を討つ軍隊。

とあるは、明応中(1492~1501)、鶴見氏が今川氏の股肱の臣たる河井氏を襲殺したるを以って、今川氏の兵来りて鶴見氏を攻撃し、城を陥したる時のことなるべし。
※ 股肱(ここう)- 主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下。腹心。

因みに鶴見氏に遺子(遺児)あり。大蔵と云う。落城の時逃れて僧となり、大存と云う。(後、勧勝寺を創む)晩年、郷里に帰り、専ら里民を勧めて、大井川の空閑地を開拓せしむ。今、本庄横岡に大蔵新田と称し、この城付近に十数町歩の田地あり。この田地はこの大蔵の力によりて成功せしを以って、その名残(なごり)なりと伝え称す。この地の灌漑用として、この田地を串(くし)通しにする大蔵あり。その水源に大蔵圦樋あり。皆な開拓の当時より名実存続して、今に至れるものなりと云う。
※ 空閑地(くうかんち)- まだ開墾・整地されていない荒れ地。
※ 井(い)- 湧き水や川の流水を汲み取る所。
※ 圦樋(いりひ)- 水を引き入れたり出したりするために設けた水門の樋(とい)。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 133 質侶庄 20

(庭のニオイバンマツリ)

ニオイバンマツリは、我が庭に住み付いてから何年経つだろう。毎年、この季節に花を付ける。花の色が咲き初めの紫から白へと変化し、さわやかな芳香があるため、こんなネーミングがされた。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また掛川藩儒松崎慊堂の手になる河井氏碑文中に、「宗忠、見兵を督し、奮撃し、克ちて、因幡(鶴見因幡守栄寿)を獲(え)る」と見ゆれば、鶴見氏、また戦死せしものゝ如し。これ的当なる徴証に非ずといえども、記して後考を存す。
※ 督す(とくす)- ひきいる。統率する。
※ 的当(てきとう)- 明らかで確かなこと。間違いのないこと。
※ 徴証(ちょうしょう)- あかしとなる証拠。
※ 後考(こうこう)- 未解決の問題などを、あとで考えること。また、後代の人の考え。(なお、慣用としては「後考を待つ」或いは「後考を期す」など)


この横岡城(宇田城)はその地形を按ずるに、東南大井川に突出し、宇田里沢、その北を繞(めぐ)り、西は二重の空濠をめぐらし、長者原と称する高台を負い、面積凡そ一町歩余ある小砦(ことりで)にして、今、外濠は埋めて畑となり、その面影を存せずといえども、一見して要害の地たるを失わず。その遺跡は歴然としてこれを認め、四百三十年の昔を偲ばしむるものあり。
※ 要害(ようがい)- 険しい地形で、敵の攻撃を防ぐのに便利なこと。

大手の下には城下(しろした)と云う地名を存し、搦め手の方には矢の沢と云う所ありて、この城、陥落の際、長者原より射下したる矢の堆積せし所なれば、この名ありと云う。また城中、古井あり。直径六尺許り、周囲石を以って畳み、今は水浅(あ)せて、その形を存するのみ。伝云う、鶴見氏戦没の時、妻女その井に投じて死す。その霊、朱唇の小蛇と化して井中に栖息し、今もその付近に朱唇の小蛇を見ることありと。この事、素より不稽の讒(そし)りを免れずといえども、記して口碑を存するのみ。
※ 搦め手(からめて)- 城やとりでの裏門。陣地などの後ろ側。⇔大手。
※ 畳む(たたむ)- 構築のために石などを敷き詰めたり、積み重ねたりする。
※ 不稽(ふけい)- 根拠がないこと。また、そのさま。でたらめ。
※ 口碑(こうひ)- 古くからの言い伝え。伝説。


読書:「ふるさとの声」 松田宏 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 132 質侶庄 19

(裏の畑のアルストロメリア)

朝から梅雨にでも入ったような天気である。(奄美は梅雨入りだとか)季節が移るのが早くなったと思う。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

されど明応の頃(1492~1501)には、鶴見栄寿、本庄横岡に居城したれば、その間、或るはその(今川氏の)配下に属したりしやも、また測り難し。鶴見氏、その系譜を詳らかにせずといえども、栄寿は因幡守を名乗り、縫殿之助と称し、栄寿の子を大蔵と云えり。鶴見氏、初め掛川に居城し、のち横岡に移住せしものなり。掛川誌掛川城の条に、

郭中、中西と云う所に、鶴見氏の屋敷跡と呼ぶ所あり。相伝う、昔遠州に三十六人衆と云う士あり。その内、鶴見因幡守栄寿と云う人、父子三代五十余年、ここに居りしと云う。また栄寿の城趾、榛原郡質侶の横岡にあり。この人、明徳五年(1394)、倉真松葉の城主、河井宗忠を襲討し、宗忠また死す。この事、奥野長松院の記、及び松堂録に載(の)りたり。然れば、鶴見氏の掛川に住せしは、(掛川城)築城已前の事なり。
※ 郭中(かくちゅう)- 仕切られた地区の内。城・遊里などの囲いの内。

按ずるに、掛川の築城は明応・文亀年間(1492~1504)にありとす。或るは永正の初め(1504~)、今川氏親の臣、朝比奈泰熙の経営せしものなりとも云う。兎に角、築城前五十余年間、鶴見氏が掛川に居住したりとすれば、この間に於いて、横岡に移住せしものなるべし。かくて明応五年(1496)、鶴見氏が横岡に在りて、松葉城を襲討したれば、同氏が横岡に移りし年代は勿論、それより以前のことにして、文明・延徳の頃(1469~1942)には非ずやとも推考せらる。

この時代は天下大いに乱れ、党を結び国を争い、本州は今川、斯波の両党に分かれ、今川氏は東遠を領し、斯波氏は西遠を有し、州内の豪族両党に分属して、戦争止まず。而して鶴見氏は、土豪横地、勝間田諸族と皆な斯波氏に属し、今川に反抗せしものゝ如し。鶴見氏の城趾として、同書(掛川誌)横岡村の条に、

鶴見氏城趾 観勝寺の東にあり。鶴見因幡守栄寿居る。明応五年(1496)九月十日、佐野郡倉真村松葉の城を襲いて、城主河井蔵人成信がために討たる。鶴見氏世系を詳らかにせず。
※ 世系(せいけい)- 祖先から代々受け継いだ系統。ちすじ。血統。

とあり。然るに遠記伝、長松院記、松堂録、皆反対の記事あり。成信、戦いに敗れて自殺したりとありて、ほとんどその真相を知るに苦しむといえども、成信戦死のことは疑いを容れざるべし。或るは、前記、河井蔵人成信がために討たるとあるは、河井蔵人成信「之れ」がために討たるの、二字を誤脱せしには非ざるかと云えり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 131 質侶庄 18

(庭のムラサキカタバミ)

ムラサキカタバミは、抜いても抜いても中々絶えない強い雑草であるが、よく見ると花は中々である。

名古屋のかなくん一家が午後帰って行った。二日に来たから、足掛け五日滞在した。この次、来るのは8月だという。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(おも)うに、永和の頃(1375~1379)には遠州は今川氏の勢力範囲に属したるべけんも、寺田(じでん)の如きは措(お)いて、問わざりし如くにして、室町の中葉までは、全く円勝寺に属したりしも、応永の末に至り、本庄の半ばを割(さ)きて、清和院の支配に移されたりしことは、古事類苑に、

 応永三十三年(1426)施行状
遠江国質侶庄、領家職半分のこと、去年八月十一日、御判を寄せ奉るの旨を任じ、弥(いよいよ)所務全うさるべくの由、仰せ下さる所なり。仍って執達くだんの如し。
  応永三十三年十一月十八日          沙弥 花押
           清和院長老殿

※ 所務(しょむ)- 所領の管理(検断及び年貢・租税徴収)を行うこと。
※ 執達(しったつ)- 上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。
※ 沙弥(しゃみ)- 剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者。


とあり。この沙弥は今川仲秋の晩年薙髪せし後の署名ならんと云う。而して、この清和院は北朝方の寺院なれば、或るは対立当時より因縁する所ありて、ここに至りて領家職半分を施入せられたるにてあらんか、と郡誌は書きたり。
※ 今川仲秋(いまがわなかあき)- 南北朝時代後期から室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、遠江・尾張守護。今川氏の分家・遠江今川氏の第2代当主。
※ 薙髪(ちはつ)- 髪を切ること。髪をそり落とすこと。剃髪。
※ 施入(せにゅう)- 寺や神社に財物を献上すること。


これより本庄は円勝、清和両寺の所領となりて、何れの時代まで継続せられしか、これを知るに由なしといえども、按ずるに、応仁以後、兼併漸く行われ、寺田(じでん)の如きも、往々武人の押領する所となるもの少なからざれば、或るは、本庄も寺家を離れて武人の手に帰したらんも、また知るべからず。後、室町の命令行われず、所謂戦国時代の本庄は、何れに属せしか明らかならずといえども、蓋し今川氏の勢力に属したるものならん。
※ 兼併(けんぺい)- 他人の土地・財産を奪い自分のものとすること。


読書:「夏天の虹 みをつくし料理帖」 高田郁 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 130 質侶庄 17

(女房の古希の祝いに届いた花籠)

お昼、近くのお寿司屋さんで、女房の古希の祝いを、子供と孫が集って祝ってくれた。インドへ出張中のまーくんパパを除いて、総勢10人である。そのまーくんパパからは、昨日、花籠のお祝いが届いていた。孫たちも年々大きくなって、走り回るようなこともなく、もう幼児からは脱却し始めているように見えた。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

按ずるに本庄は鎌倉の始めは地頭さえ、一時不入の姿なりし如くなれば、賦課法の如きもこれを知るに由なしといえども、承久以後(1219~)には新地頭の補任せられたるものなるべけんも、この時代は、遠州は守護を置かず、鎌倉の直轄なりし如くにして、而も、画一の制度なき庄園の如きは、如何なる賦課法の行われしや、得て知るべからず。
※ 不入(ふにゅう)- 国家権力により荘園領主に与えられた特権で、国衙の検田使や収納使の荘園内への立入りを拒否できる権利。

鎌倉幕府の公認せし、永楽銭を標準としたる庄園の制度も、自家の覆滅に帰するとともに、漸く衰えて、後には強きものは弱きものを併せ、遂に知行制となり、統一を欠きたれば、這次(このつぎ)のこと、また考うべきものを見出さず。
※ 覆滅(ふくめつ)- 完全に滅びること。

建武の中興の業終らず、天下また大いに乱れ、室町幕府の起きるや、国郡を分けて家臣に封じ守護に補し、一時の権勢を頼み、以って小康を致すといえども、民政その宜しきを欠き、田土(田地)の制、また頗る廃弛し、民間漸く武家政事を嫌悪するに至る。太平記に武家役を懸けられ、諸人愈々(いよいよ)憤を含むとあるにても、その一班を窺うべし。この時に当り、本荘は何れに属したりしか、明らかならずといえども、南北朝の末に亘(わた)りて、なお依然として円勝寺に領属したりしものなるべし。東大寺文書に左の記事あり。
※ 小康(しょうこう)- 事態がしばらくの間、収まっていること。
※ 廃弛(はいし)- すたれゆるむこと。行われなくなること。
※ 一班(いっぱん)- 組織をいくつかに分けたときの一つ。


遠江国、三代御起請、三社領の事。
一 三代御起請地 原田庄/宝金剛院 飯田庄/蓮花王院 質侶庄/円勝寺
  曽我庄/長講寺 上西庄/遺迎院 山名庄/熊野山 相良庄/蓮花王院
一 三社領地  比岐庄/上賀茂 加茂庄/下賀茂
 右注文如件
  永和二年(1376)二月七日        左官掌  中原判

※ 三社領(さんしゃりょう)- 伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社の荘領の総称。

因って云う。この三代御起請地は白川院、鳥羽院、後白川院の三代院政を行わせらるゝに当たり、諸国の神社仏寺は、当時跋扈せる所在の豪族の押領狼藉を防ぐため、自家の庄園を皇室に献上して、その所領年貢の安堵を期せしのみならず、勅事、院事、国役など課役の免除を永く受けたる特権ある土地を謂う。これに於いて、皇室は本家となり、社寺は領家または預所となりしものにして、起請は後世の願書と云うに同じ。
※ 跋扈(ばっこ)- わがもの顔に振る舞うこと。のさばりはびこること。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 129 質侶庄 16

(まーくんの少年野球)

午前中、掛川に少年野球の試合を見に行った。4年生になったまーくんが少年野球のチームに入り、試合に出ると聞いたからである。5、6年生のメインのチームではなく、サブのチームである。クラブに入ったばかりだが、セカンドの守備に、広島の菊池二世だと言ったコーチはおだてすぎで、野球を始めたばかりにしては、球を追う感覚が悪くないというのであろう。

今日はセンターで、球は一度、ショートが取れなかったフライがバウンドして、センターに転がっただけであった。見ていると、球を投げる肩がまだ出来ていない。バッターに立ったがフォアボールで、次の打者の一球目に二塁に走り、二球目に三塁に走って、ゆうゆうセーフ。足には自信があり、当然のように盗塁していた。お昼過ぎたので、途中で帰ったが、試合としては、まだまだ幼くて、ゲームを組み立てる形にはなっていない。もう少しうまくなったら、また応援に来ようと思う。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

食貨志にその消息を叙して、

凡そ荘園、錯して諸郡と郷村に在り。その区域を殊にす。各(おのおの)名号を立て、公験を請く。以って相伝え領し、或は牧地を侵掠し、墾じ荘田と為す。よって旧名を称す。故に往々、並び称し荘牧と曰う。このこれを領する者、公卿を称して領家と曰う。豪民を領主と曰う。院宮及び摂籙等家、主上の領する処にて、その租入を受く者、号して本家という。
※ 錯す(さくす)- 入り混じる。
※ 公験(くげん)- 奈良・平安時代、私有地を譲与・売買したとき、官府が所有権の移転を公認した文書。転じて広く土地所有権を立証するための文書をいう。
※ 侵掠(しんりゃく)- 侵略。
※ 豪民(ごうみん)- 有力者のこと。
※ 院宮(いんぐう)- 上皇・法皇・女院と三后(太皇太后・皇太后・ 皇后)・東宮の総称。
※ 摂籙(せつろく)- 摂政の異名。関白をもいう。
※ 主上(しゅじょう)- 天皇を敬っていう語。おかみ。至尊。


凡そ荘園事務、一切、本家、領家の進退する所なり。国司、これを問うを得ず。その荘務を管する者、初め、荘長と曰う。後に、総検校、検校、専当、預、別当などの職有り。概して称して荘司と曰う。また下司と称す。公文、案主、総追捕使、押領使、などの職有り。総じて荘官と曰う。園務を掌(つかさど)る者、園司と曰う。皆な本家、領家の置く所なり。
※ 進退(しんたい)- 心のままに扱うこと。自由に支配すること。

或は、在庁官吏、及び郡司等を以って、これを補う。その郡司を以って(補う)者、大荘司と称す。或は、一人を以って、国中諸荘務を統べる者有り。総官と曰う。後に、宣旨を以って、これを補う者有るに至る。その荘民、寄人有り。住人有り。各(おのおの)、名田を占める。以って永業と為す。
※ 宣旨(せんじ)- 平安時代以降、天皇の命を伝える文書。
※ 寄人(よりゅうど)- 荘園において、荘園から他領へ出作した農民を他領では寄人といった。
※ 永業(えいぎょう)- 永業田。世襲を許された田。世業田。


毎荘、皆な荘家有り。以って荘務を行なう。その賦課の法、考え得るべからずといえども、而して、穀粟、布、帛、綿、塩及び漆、金、馬匹等、各(おのおの)、当土(当地)の産する所に任す。或は役夫を差し発す。或は諸料物を課す。或は、臨時加徴、蓋し皆な荘司等、酙酌量定する所、固より画一の制に有らざるなり。租徴庸役の法、これよりして壊(こわ)る。
※ 加徴(かちょう)- 租税などを増加して徴収すること。
※ 酙酌(しんしゃく)- 斟酌。あれこれ照らし合わせて取捨すること。


とあり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 128 質侶庄 15

(散歩道のハウチワマメ/4月27日撮影)

先日、古文書の教材でお世話になっている、若い古本屋のTS氏から電話があり、島田のポポロで骨董市があり、頼まれて出品しているので、覗いてみてほしいという。今朝、会場に行ってみた。TS氏は見えなかったが、古書や古文書も出ていた。一通り見て回り、一つ判ったことがあった。それは自分は骨董品には興味がないことであった。古文書も、中身を読んでみたい気持ちは強いが、古文書そのものを手に入れたいわけではない。それを再確認して、会場を後にした。

掛川からまあくん一家が合流して、お昼はうどんのリクエストであった。麺類は自分の担当だから、大鍋を用意した。孫4人、大人5人で、100gの乾麺を10束、1キログラムを茹でた。大皿二つに盛ってみて、作り過ぎたかと思ったが、結果、残らず完食であった。孫の食べ量もだんだん大人に近付いてくる。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

これらは何れの時代より起りしか詳らかならずといえども、「保」は後一条天皇の時、穀倉院領播磨国小犬丸保ありしこと、壬生文書に見ゆれば、古くよりありしことを知るべし。「名」は大日本租税志に、宇佐八幡神領記を引いて、保安(1120~1124)、天喜年間(1053〜1058)、名田の名ありとあれば、それ以前より称したりと見えたり。

王朝の末には名田のこと、諸書に散見せり。また太平記大全に、名は田壱町歩を云うなりとあり。されど源平盛衰記に、源頼朝、名田百町歩を烏帽子商人に賜いしこと見ゆれば、単に、壱町歩には限らざるものの如し。名田は原と開墾したる人の名を負わせたる地にして、後世、大小名と称するものはこの地を占有する。多きものを大名と云い、少なきものを小名と云いしより起りたる名に外ならず。

鎌倉の末には名田に限らず単に土地を多く領し家子郎党などを養う武門の領袖をも大名と云えり。室町時代には数国を領有するものを皆な大名と称せり。この名は久しく因襲し馴致して、後世に至りしものなり。

永禄三年、今川氏真寄付状に、榛原郡金谷郷深谷の内宮田名の儀と見え、江戸時代となり、土地の権利を認むる公券などにも某の名田と書かせしものあり。必(畢)竟、名は私田の一種にして、これに所有者の名を付して呼びしを以って、これを名田と云うに至る。厨、園は駿河雑記に、

御厨とは太神宮の供御料の田を云うなり。これを御園とも云えり。

とあり。これを要するにその実、皆な庄園の一種に外ならざりしなり。

大凡これら私占の庄園、国郡に編布してより、郷戸保名などの旧地、皆な庄園に変化したるのみならず、年を経(ヘ)、世を易えるに随い、大小の田土(田地)、その名の如何を問わず、一切私有世襲の習俗をなし、随いて賦課の旧制も破れて、画一の制度なきに至るものゝ如し。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 127 質侶庄 14

(散歩道のアヤメ/4月27日撮影)

午後、マクワウリの苗2本とサツマイモの蔓10本を農業屋で買ってきた。
夕方、名古屋のかなくん一家が帰郷。かなくんパパは久し振りである。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

知行 土地を領知するの謂れにして、朝野群載、永延三年五月廿八日太政官符に、知行諸務とあり。また庄田知行はこれを分ちて、下知の知行と所当の知行と二種となすことを得。百姓職、名主職、庄官職を行使するものは、下知の知行者にして、本家職、加地子職を行使するものは、所当の知行者なりと、庄園考(中田氏)に見えたり。
※ 朝野群載(ちょうやぐんさい)- 平安時代の詩文・宣旨・官符・書札等各種文書を分類して算博士・三善為康が編纂したもの。
※ 加地子(かじし)- 中世、名主が土地を貸し与えて、耕作させた作人から徴収する地代。小作料。


一色別納 略して別納とも一色とも云う。地頭の手を離れて名主が年貢を収むるを云う。鎌倉の下文に、
※ 下文(くだしぶみ)- 上位者が下位者あてに下した公文書。平安時代から中世、院の庁・摂関家・将軍家・政所などから、それぞれの支配下にある役所や人民などに出された。書き出しに「下(くだす)」の文言がある。

下す。上総国佐是郡内、矢田(村)、池和田村、早や(すぐに)、権助娘を以って一色別納と為すべし。限り有る所当は、加々美小次郎を弁ぜしむ事。右件、両村、公事を優免せしむため、一色別納と為す。権介の娘に仰せ付く所なり。然るといえども、限り有るの所当においては、加々美小次郎に弁ぜしむべきの状、如件の如し。
 文治二年(1186)正月二十一日
※ 所当(しょとう)- 中世、官または領主に納付する物品や雑役。
※ 優免(ゆうめん)- 特別に免除すること。


按ずるに、鎌倉以前、すでに私田立券のものあり。後閑、古閑、保名、厨、園、などの如し。蓋し、後閑、小閑は所謂(いわゆる)空閑不毛の地を開拓したる田土(田地)の謂れにして、保、名は地理志料に、
※空閑不毛(くうかんふもう)- 作物が作られないで空いていること。

 古えは保長、保子あり。五家相保の義を取り云う。後世、大都広邑、保子、保長、保奉行有り。東鑑以下の書に散見す。
 初め空閑地を闢く。私田としては、故(むかし)は多く、その姓字冒す。なお、後、これを某小名主と曰うが如くなり。漸く、侯伯の称を為す。近世謂う所、村名主と夐別なり

※ 姓字(せいじ)- 名字とあざな。姓名。
※ 冒す(ぼうす)- 仮に名のる。仮称する。
※ 侯伯(こうはく)- 諸侯。大名。
※ 夐別(けいべつ)- 全く別であること。


読書:「桐の小箱 随想小品集」 松田宏 著

著者の松田宏氏は島田市の前教育長で、自分とは同郷、同じ大学出身、大井川を挟んで、長年知らずに暮らしてきた。歳は五つほど先輩で、老年になって面識を得るようになった方である。文学的素養をお持ちとは知らなかった。この頃、図書館のHPで名前を見付けて、読ませてもらった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »